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顔/ケア/無意味

 

 

『あわ居-〈異〉と出遭う場所-』刊行にむけてクラウドファンディングを終えて少し落ち着いてきたので、クラファンが進行するなかで身体のなかをめぐっていた言葉を、ここに記してみたいと思う。

 

まずひとつ大きく感じたのは、「他者」というのは、まったくわからないものだということだ。何を考えているのかわからない。自分が差し出したものに対してどう反応するかまるでわからない。その意味で、「他者」は絶対的に「他なるもの」であり、外部であるのだということを強く感じた。これは不思議なことだ。私たちはいつも少なからず人に囲まれた生活環境で暮らしている。だとすれば、この他者に対する「わからなさ」、もっといえば「ままならなさ」というものは、日常的な生活空間においても感じ取れるものであっても良いような気がする。もちろんそうしたことを感じる場面は日常空間にもあるかもしれない。けれど圧倒的にそうした場面は少ない。過去のデータや傾向をひっぱりだしてきて、それを目の前の事象や人物にあてはめて対応しているのが大半の場合だろう。

 

その意味では、今回のクラファンは、少なくとも私にとっては非日常的な時間であり、一種の「賭け」の要素をはらんだものであったように思う。ではなぜそうだったのだろうか。おそらくそれは、自分たち自身にも、自分たち自身のやっていることの意味が規定できていなかったからだろう。それは本を出版するという行為に対してもそうだし、その資金を寄付で募るという点においても。それらの行為にどんな意味があるのかを、私たちが私たちで規定できていなかった(今もできていない)。

 

でもクラファンをはじめて10日目くらいに思ったのは、たぶん人が心の底から湧き立つこと、身体の芯から「やってみたい!」と思うことというのは、ほんらいそういうものなんだろうなということだ。なぜだろう。おそらくそれは「やってみたい!」という思いにおいて発露しているものが、本来的には「無意味」であるからなのだと思う。「無意味」と書くと、どこか残酷な感じがするが、逆に言えばここでの「無意味」というのは、「意味には回収されない」ということだ。もっと言えば、それをやる本人に、その「やりたい!」から発露しているものへの「意味」づけが困難であり、他者がそれをどう受けとるのか、どう解釈されるのかがわからないなかで、でもそれをやる、それを他者の前に捧げるという、ある種の非言語的な状況に身をおくフェースがそこに出てくる。

 

これは非常にしんどい。そこには断絶がある。つまり、仮にその「無意味」な行為に対して、他者が何か応答をするとして、それが返ってくるのかはそれが返ってくるまではわからないし、仮に返ってきたとしても、必ずしもそれが好意的なものだとは限らないからだ。さらには、仮に好意的なものだったとして、でもそれが予想外のものであり、戸惑いを覚える場合も多々あるだろう。そしてまさに今回のクラファンで、私はこうした状況に身を置いていた。まさに「顔」を露呈させていた。

 

しかし、人間は弱いものなので、そんなに簡単にその状況に堂々と立てるわけではない。焦って「支援してくださいとメールしようかな」とか、「何か動画配信とかした方がよいのか」とか、自力で出来ることを、とにかく探して、その焦りを取り除こうとしていた。

 

それで「これは良くないな」と思って手に取ったのが、鷲田清一さんの「待つということ」で、私はこの書籍に幾たびも救われてきたのだけれど、あらためて読んでみて、「他者がどう思うか」「どう応答するか」は私たちのあずかりしらないところであって、失敗するか成功するかは他者が決めればいいこと、もっと言えばこの現代にという時代において、自分たちやあわ居が生きれるのか、それとも死ぬのかは他者が決めればよいのだという、言ってみれば開き直りをすることが出来た。そうすると、不思議な状態にいられるようになる。たぶんあの時の状態こそがオープンダイアローグがいうところの「不確実性への耐性」であり、その耐性を携え、偶然に身をゆだねるなかでおこることが、ヴェイユやアガンベンのいう「脱創造=外部の召喚」なんだろう。

 

それで、実際に確かにそれは起こった。詳細はざっと端折るものの、私はこれからあわ居の運営とともに、「書家」として、ちゃんとやっていこうと、ちゃんとやっていこうというのは、定期的な展示の開催と、作品販売、受注での作品制作をやっていこうと思えた。こんな自分になるとは、クラファン前に思わなかったし、そもそもあわ居のことをやっているのに、書の部分に影響が派生してくるなんて思ってもみなかった。しかし、私がそのように動くことを、そのような未知の私を、「他者」がまなざしてきたのだ。まなざされたのならば、私はそれをしないわけにはいかない。これがまずはクラファンの前半に起きたこと。

 

それで最終日、残り10時間ほどで135,000円が目標まで足りておらず、正直に言って「これは厳しいかなぁ」と思っていた。だから言うまでもなく、焦る。それでとりあえずやれることをやり、でも焦っても仕方がないことも同時に思い、そこでふっと「汝、殺すなかれ」という、哲学者レヴィナスのあの言葉を思い出した。顔は「殺すなかれ」と訴えている、というレヴィナスが言っていることを思い出した。

 

もう「顔」をさらけ出していることしかできない私は、そこでもう他者に身を預けることにした。そして結果的に言えば、庭文庫の百瀬さんの憑依ともいうべき驚異的な情報拡散もあり、知人ではない方から終盤に一気に支援が集まり、自分たちでもよくわからないままに、どうして成功したのかわからないままに、終了1分前に、目標金額を達成した。異界というのは、異界が閉じられてから異界だったと気付くとよくいわれるけれど、今振り返ってみても、あのラスト2時間というのは、百瀬さんと一緒に異界に居た気がするし、その異界において、よくわからないところで細胞みたいなものが、うわーっと自律的に集まって、結晶化し、気づけば目標達成していて、どこか他人事みたいな感じがあるというか、「どうやってこうなったんだっけ??」っていう、そんな感じだった。

 

思うのは、たぶん「信頼」というのは、こういうところでこそ形成されるんだろうなといことだ。「無意味」でしかありえないわたし、その「無意味」な「顔」を露呈させたところで、あらゆる暴力や誤解、解釈を許してしまうその次元において、それでも他者の前に立ち、自分でもよくわからないままに、他者に巻き込まれ、他者に助けられ、世界に身を委ね、その構造も順序もわからないところで、それでも「世界」に救われてしまうこと。他者に救われてしまうこと。救済。たぶん「他者を信頼する」ということ、「世界への信」は、こういう次元にあるんだろうと思った。

 

ケアというと、よく「無償性」という語句と関連付けて語られるし、もちろんそうした要素があることは間違いないが、今回思ったのは、たぶんケアというのは「無意味」なものに対して、「無意味」なままになされることなんだろうなということだ。でもその「無意味」を媒介にしたところにこそ「世界」があり、「信頼」があり、「救済」もある。たぶんそういうことなのだと思う。ケアは無意味。それはたぶん生が無意味であることとそう遠い話ではない。信頼や救済は「あいだ」にこそあって、どこか僕にはその「あいだ」を事前に埋めようとする傾向が少なからずあった気がするのだが、今回の経験で、その余白に居る耐性が多少はついて気がする。「何が起きるかわからないところ」でじっとしていること。

 

あらためて、多分な学びの機会を、ほんとうにありがとうございました。これを糧に、またあわ居の実践に生かしていきたいと思う所存です。

 

 

あわ居 岩瀬崇

(絵:岩瀬茉子)