闘争としてのサービス

 

 

書籍『闘争としてのサービス』を読んだ。この書籍を知ったきっかけは、こちらの記事(『客を否定する「闘争的サービス」が支持されるのはなぜか』)を偶然目にしたこと。「サービス」に対して「闘争」や「否定」という相反的ともいえる語彙が用いられている点にまず惹かれた。加えて、あわ居で実施している各種体験というのは、来訪者の方が普段運用している秩序やナラティヴあるいはパースペクティヴなどを「中断」させるものであると私自身は理解しており、またそうした「中断」が生じることを願って私たちはあわ居を営んでおり、この「中断」という語句と、「否定」「闘争」という語句に、私なりに非常に強い親和性というか、関連があるのではないかと直観したのだ。

 

それで読んでみてどうだったかといえば、一言でいえば、まさに良書だったといえる。一見すると、ビジネス本のようなタイトルであるし、たしかに書かれていることや用いられている語句はビジネス領域の人に身近なものもおそらくは多いのだろうけれど(私はビジネス領域にいないのであまりよく知らないが)、しかし私の感覚としては、本書籍で提案されているのは、サービスや労働に「応答」や「顔」を取り戻すことであり、作り手と受け手(この分類も本来はよくないが)が共に格闘しながら価値を共創する営みの奪還だといえるだろう。従ってあえていうならば「関係哲学」ともいうべき領野に位置する書籍なのではないかと思う。さらに拡大解釈をすれば、この植民地化著しい新自由主義経済下において、それでも労働(≒サービス)を通じて他者と相互作用をし、それを通して自己生成あるいは特異化していくことを決してあきらめてはならないというような、力強いメッセージ性と批評性に満ちた、ラディカルで壮大な労働哲学の書籍ともいえるのではないかという印象を持った。

 

あわ居をやっていると、「ほんとうにこの方向であっているのか?」ということは、常々疑心暗鬼してしまうわけだけれど(何かを実践することにおいて迷いや揺れがない人間などいない)、しかし本著に記された「サービス」の理想形、あるいは現状の「サービス」への疑念と挑発ともいえる批判を読んでいるなかで、決して私たちのやっていることは的外れではないということを思った。自己生成とサービスの境界を見つめる営み、その実践こそが必要なのだ。それは飛躍していえば芸術としての労働を取り戻すことにもつながっていくだろう。自らの実践に対して強く背中を押された感覚だ。いわゆるサービス業に関わる人だけでなく、ひろく労働と創造の「あわい」に興味のある方にはぜひおすすめしたい。以下、非常に印象的だった文章を引用し、結びとする。

 

■人間中心設計では、サービスは理解しやすく、ストレスのないものとし、顧客にとってはコントロールできるものである必要がある。しかしそのようなサービスは、顧客をその人がどういう人かを問題とし、それを実践の中で交渉していくということのためには、サービスはある程度わかりにくいことを、客にとってはコントロールできないことが重要となる(中略)サービスはある程度わかりにくいこと、客にとってはコントロールできないことが重要となる。

 

■人間脱中心のデザインとは、人間中心設計の単なる否定ではなく、その弁証法的止揚である。つまり、人間中心が人間を中心にしていないという批判的運動を伴っており、否定しながらもそれを保持している。人間脱中心の主張は、人間をないがしろにするという意味ではなく、むしろ人間を本当の意味で中心に据えることを目指すことを意味する。しかしそれが不可能であるか、恣意的であることを前提として。レヴィナス風に言えば、人間中心設計は十分に人間中心的だろうかという問題提起である。前述のように、「応答を要求する、繰り延べることのできない切迫」という緊張感によってこそ(レヴィナスはそれが平和的であることを主張するのを忘れないが)、人が人として参加するサービスの意味が生まれるのであり、人の要求を満たすからではない。(p.214)

 

 

■要するに、ユーザという固定的な主体を措定し、そのユーザの要求を理解し、要求を満たすというデザインアプローチは、サービスデザインにはそぐわない。むしろその「正反対」のアプローチが求められる。人間中心という言説によって、人間という予め規定された主体を中心に据えるのではなく、人間を脱中心し、人間がどのように主体化されるのかに着目することが必要である。そのために、ユーザと闘うことが求められる。闘うということは、ユーザをないがしろにするのではなく、ユーザを対等な存在として尊重することの必然の帰結である。(p.215)

 

 

あわ居 岩瀬崇