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聴く/ケア/この私

 

 

社会的には「マイノリティ」として位置付けられる傾向を持つ人へのインタビューを中心に編まれた、とある書籍(諸事情でタイトルは伏せます)を読んでいる中で強く考えさせられたことがあったので断片的にいろいろと感じたことを書いてみたい。

 

 

まず思ったのは、ある当事者の生の声にふれることはおそらくそのまま、聴き手あるいは読み手自身の立脚点や枠組みが揺さぶられることを意味するのだろうということだ。逆に言えば、自らの枠組みが瓦解することを覚悟せずして、他者の声を聴くこと、他者に触れることはおそらくかなわない。なぜならそこで発せられる当事者の「声」というものには、この社会に流布する善悪であったり、社会や時代によって決定されている価値体系といったものを、軽々しく打ち破ってしまうような、そんな固有の響きがあるように私には思われるからだ。

 

 

話し手自身が自らによって(もちろんそこには社会的な権力や制度による抑圧、それを含めての他者からのスティグマといった見えない力が行使されていることは言うまでもない)隠ぺいし、忘却してしまっている性質や傾向、記憶といったものを、それ自体として、つまりは何の評価も価値づけもないところで、聴き手(話し手)がただそれとして受け取ること。もしかしたらそれが、「話を聴く」ということなのかもしれない。その相互作用のなかで、そのあいだで響いているもの。それを例えば「無為のことば」と名付けることも可能だろう。何の意図も意味も操作性もない「無為のことば」。それはこの世界にひとつの揺れを生じさせてしまう決定的な何かである。これまで生きてきた世界を転覆させ、まるで知らない風景を眼前に広げてくれる何か。だから、「無為のことば」はシステムやイデオロギーによってがんじがらめになりがちな私たちの日常に風穴をあける、力そのものであるようだ。この社会を、この歴史をよりひらかれたものへと、人間本来のものへと突き動かしていくための力そのもの。

 

 

 

言うまでもなく、一人の社会的存在である聴き手(あるいは読み手)は、これまで自分が信じていたなんらかの価値体系や基準といったものを有している。けれどもある当事者の「声」を前にした時、実はそうした価値体系や基準といったものは自らの経験を通して刻苦して築いてきた哲学や思想に基づくもの、あるいは周到な論理の積み上げのなかで獲得されたものなのではなく、あくまである時代、ある社会に流布するイデオロギーや常識といったものによって、知らぬ間に無意識のところに沁みついていたものにすぎないのだということに気づかされてしまう。つまり他者の「声」は、聴き手(読み手)がこれまで築いてきた借り物ともいえる生き方に対して、鋭く意義申し立てをする。「それであなたはどう生きますか?」と挑発をする。

 

どうしてこういうことが起きるのだろうか。それはたぶん当事者の発している声、あるいはその声をなんとかして他者に届けようとする、形象化しようとする彼ら/彼女らの態度の中に、社会と個人の間で揺らぐ姿が紛れもなく認められるからだろう。これを他者の前で発してしまって良いのだろうかという戸惑いが、そこにはおそらくある。そしてその揺らぎの中で、その葛藤のなかで、それでも彼ら/彼女らが選び取っているもの、そこから発せられるものは、社会的に流布する価値体系によって分類できるものではない。分類とか評価といったものを容易に跳ねのけながら、それでもそこに名状しがたい輝きが刻印されている。それは徹底的に私的ななにかなのだ。「私」の生なのだ。「声」はあくまでも個人から、たった一人の「この私」の身体から発せられる。固有の「声」を発するための葛藤を乗り越えること、「声」を他者と前に晒すこと。たぶんそこでは「声」を分かち合うこと自体が、そのまま互いを互いとして認め合うこと、つまりは共生成を支えるケアとして作用している。何よりの「生」へのエンパワメントとして、「声」はそこに在る。話し手にとっても聴き手(読み手)にとっても。だから「声」は、この欺瞞と偏見に満ち満ちたこの社会において、それでも自らが自らとして生きていて良いのだと、そう強く私たちの背中を押してくれる何かであると言えるのかもしれない。

 

 

多くの場合、多くの場面において、できれば人は自らを隠しておきたいものだと思う。なぜなら自らを曝け出すことは往々にして、そこに社会的な価値観との相違、ズレを生んでしまうからだ。そこにスティグマが生じ、他者から侮蔑的なまなざしを向けられたりする場合もある、ひどい場合には社会的存在として抹消されることもあるかもしれない。しかしそうした葛藤やスティグマといった恐れを抱え込みながら、それでもなお発せられた「声」があったとして、おそらくそこには社会規範やイデオロギーによっては決して回収され包摂できないなんらかの、一見すれば逸脱したとも見えかねない「いのち」が内包しているように思う。「いのち」に人は、他の誰でもない「この私」を見る。「この私」として生きていくことへの力を得る。だから、自分自身が知らぬ間に隠ぺいしてしまっていることや、社会生活のなかで自己否定的にとらえてしまっている性質を明るみにしていくことがかえって、他者や社会を解放し、よりひらかれた歴史を構築することに寄与することもあるのだろうなということを思う。一方的に付与され獲得してしまっている規範意識や倫理にがんじがらめになった日常にならないためにも、もっと学問したいということを強く思う。そうしたときにやはり社会学や人類学はとても有効な道筋を示してくれるものだと思う。この現代という時代は歴史的に見ればあくまでも特異な時代である。目の前にいまこうして広がる地平や状況もまた特異なものである。もっと鳥瞰図的に、現代という「特異」なものを見つめ、把握し、そしてそれを踏まえて根源的な生を探り、構築していくためのパースペクティヴを身に着けたいということを強く思う。

 

 

 

社会規範やイデオロギーを無意識のところで内面化し、そこで秩序化される生活や存在様態があったとして、しかし人間が生きていく中では、そうした手持ちの価値基準によっては乗り越えられない出来事や場面に出くわすことが往々にしてある。そこで問われるのが「この私」であるのだろうし、そこである個人がどのようにその未知の状況に対峙し乗り越えたのかという、その態度が刻印されたものにこそ、誰かの「この私」をひらいていく潜勢力があるのだろう。私はそういうものもアートなのだと思う。

 

 

 

あわ居 岩瀬崇