体験者インタビュー集に「vol.20:大野佳祐さん」を追加しました

 

 

こんにちは。あわ居の岩瀬崇です。表題の通り、本日あわ居ホームページ上の「体験者インタビュー集」に「vol.20: 大野佳祐さん」を追加しました。

 

大野さんは2024年の4月にあわ居の「ことばが生まれる場所」をご利用いただきました。実は大野さんの住む島根県の海士町という離島は、あわ居主宰の岩瀬が23歳の時にゼミの合宿で訪れた場所であり、そこでの出会いや、その時に実施したおじいさんへの聞き書きでの感動が、今の自分の活動を形作っている部分があります。その点でも、10年以上も経ったこのタイミングで、海士町にコミットされている大野さんのご来訪は、率直にうれしかったですし、どこか不思議なご縁も感じていました。

 

今回のインタビューでは、「ことばが生まれる場所」の中で体感された印象深いエピソードやそれを起点に発せられた大野さんご自身の深い思考の軌跡が語られていますが、とりわけ私にとって注目的だったのはあわ居の来訪していただいた際に、対話でも共有してくださった海士町でのプロジェクトの進行が止まってしまい、今も宙吊り状態にあるというお話でした。もともとそのプロジェクトは、「海底美術館」といった名前での実施を検討していたもの。あわ居での対話のなかで岩瀬美佳子から発せられた「美術館っていう名前じゃない方が良いかもしれないですね」という言葉が今も耳に残っており、今もプロジェクトは寝かしたままになっているとのことです。

 

 

僕はけっこう猪突猛進タイプなので、「進めるぞ」ってなれば、わりと進むタイプなんです……ただ、今は周りからも「他のプロジェクトは前に進んでいるのに、すごく熱量を込めてやりたいと言っていた海のプロジェクトだけ中空に浮いたままですね」みたいな印象をもたれていて(笑)。それはまさにそうだよなぁと。そして心の中には、あの時の「美術館ではないんじゃないか」っていう言葉が今でもありますね。

 

 

しかし大野さんは、こうしたご自身の状況に対してポジティヴな捉え方をされています。以下、少し長文ですが、大野さんの語りを引用します。

 

 

あわ居は〈異〉と出遭う場所ということですが、自分にとっての〈異〉はなんだったのかなぁと思うと、保留するとか、立ち止まるとか……そういう〈異〉との出遭いがあったかもしれないなぁと思いますね(中略)。期日を決めて、「ここまでにやるぞ」って決めたら、必ずそれまでにやるというやり方が僕の基本なので。だから、そういうやり方からはずれて、こうやって待ってみることの中で生じるものがあるとすれば、それは何なんだろうと、そこに興味が向いている感じはありますね。

 

 

(中略)自分が海との関わりの中で体感したようなことをプロジェクトで仕事で作り出すってなった時に、それを無理やりに手繰り寄せようとすると、それは自然との「共存」になると思うんですよ。でも僕がそこで作り出したい世界は、あの時の大師堂の下の川が合流していた感じで、それは「共在」とか「共に在ること」になると思うんです。異なるものと異なるものがただ一緒に存在しているわけではなく、それらが「共に在ること」でこそ成立するというような……そういうものの方が良いんじゃないかと思っています。たぶん「共存」でも、ビジネスとしては作れると思うんですよ。コンセプトも悪くないし、十分にその価値は伝わると思う。でも何ていうのかな……そこでやったところで、本質的な場になるのかなぁっていうところに、どこか引っ掛かりがあるのかもしれないですね。そこで生まれる自然との時間によって、本当に自分を取り戻していく人がいるのかなぁと。結局、防水のシートを買ってきて、写真撮ってインスタにアップされて、終わりになるんじゃないかなぁみたいな(笑)。そういうインスタントな承認欲求のために使われて終わりになるんじゃないかと。

 

 

私はこうした大野さんの語りを文字おこししながら、アガンベンの「非の潜勢力」の概念を思い起こしていました。アガンベンは既に実現されているもの=「現勢力」に対して、未だ実現されていないものとしての「潜勢力」の語を置きます。例えば、建築家が設計をしているとき、彼/彼女は設計するという「現勢力」を発揮しています。しかし彼/彼女には、そこでは発揮されていない無数の「潜勢力」があって、それは実現するか否かすらわからないものです。例えば彼/彼女は、もしかすればプロ級の料理をする潜在性を持っているかもしれません。頑張って努力すれば料理の能力が開花し、いつか「現勢力」となるかもしれない。そんな「できるようになるかもしれない」という無数の「潜勢力」の存在が彼/彼女には想定されます。

 

そのうえで、アガンベンはそうした文脈においての「潜勢力」とは別に、「非の潜勢力」というものがあると言い、むしろそれこそが重要であると指摘しています。「非の潜勢力」とはいわば、「できるけれど、しない」という力能です。先の建築家でいえば、彼/彼女はたしかにいつでも設計を出来る。けれどもしかし、それを「しないこともできる」。そうした「できるけれど、しない」という状態に留まれることをアガンベンは重視し、そこにある力能を「非の潜勢力」という語句によって定義しています(*1)。そしておそらく本当の意味での創造、真の外部との接触=脱創造は、こうした「できるけれど、しない」という宙吊り状態を保ったままに、その状態を維持した中でこそ偶発する出来事との絶え間ない応答のなかで、発展し、結実化していくのではないかと私は思います。なぜなら、「できるから、する」ということばかりしていると、つまりは「現勢力」ばかり発揮していると、そこに未知が生じる余白がなくなってしまうからです。未知との遭遇のない創造は、おそらく本当の意味での創造(=脱創造)ではないのではないでしょうか。

 

その意味で、大野さんは、これまでの仕事とかプロジェクトのやり方を一旦止めて(=「できるけれど、しない」)、どうしたら良いかわからない状態に身を置いていることは、アガンベンの「非の潜勢力」を発揮した状態にあると捉えることができるのではないかと、そう思ったのです。今日の創造の在り様をめぐっては、主体/客体、モノ/人、自然/人間を分離したうえで、主体が操作的にプロセスを展開させるような形式への批判は高まっているように思います。だからこそ、共創や中動態といったテーマがフューチャーされているように思うわけですが、従来型の創造に慣れ親しんできた私たちからすれば、共創や中動態的な形の創造がどのように展開するのか、どうやったらそれが結実化するのか、むしろどんなことが起こればそれを共創とか中動態と呼んで良いのか、それらの概念はあまりに未知なるものです。その意味で、それらを含んだ創造へと着手していく際、ある種の恐れやわからなさとの対峙は免れないものだと私は思います。

 

そしてこれはあくまでも私の私見ですが、本当の意味で共創や中動態的なものを取り入れた形で労働が展開していくには、おそらく誰しもが、アガンベンのいう「非の潜勢力」に向き合う必要があるのではないかと私は思うのです。その意味で、インタビューの中で語られた、海底の美術館に対する大野さんの葛藤や、待つ姿勢というのは、従来型の創造とは異なる、本質的な創造(=脱創造)をかたちづくっていくに際して、非常に重要な視点を与えてくれるものだと個人的には感じます。大野さんのインタビュー記事に描かれた「待つ」態度や、従来型の仕事の進め方を中断しながら白でも黒でもない葛藤を引き受けている様態は、今日の創造をめぐって誰しもが直面しうるものであり、ある種の最先端であるのかもしれないなと私には思われました。そんなことを考えるひとつ契機としても、是非インタビューをご覧いただければ幸いです。

 

 

(*1)詳細は『思考の潜勢力』『増補 アガンベン読解』『バートルビー 偶然性について』などを参照。

 

あわ居 岩瀬崇