体験者インタビュー集
vol.10
柳澤龍さん 1986年生まれ
鄭伽倻さん 1983年生まれ
2022年8月にご夫婦で「ことばが生まれる場所」を体験
■龍・・・柳澤龍さん
■伽・・・鄭伽倻さん
ーあわ居の「ことばが生まれる場所」に参加されたきっかけについて、まずはお伺いできますか?
■龍:
きっかけは、長良川カンパニーの代表理事で、郡上市に住んでいるの岡野春樹君の紹介ですね。丁度僕は適応障害になってしまったタイミングだったんですが。 春樹君も昔一度、自律神経失調症になったことがあったから、その頃どう過ごしていたかとか、その後どう変わったかっていうことを聞いてみたいと思って郡上に遊びに行くって言った時に、あわ居さんをご紹介頂きました。是非行ってみて欲しいって。薦められたことは断らない性質なので、軽い気持ちでというか。まずは伺ったというのが経緯ですね。
ー今回、ご夫婦でのご参加でしたが、お二人でお越しいただいたのは、どんな背景からだったのでしょうか?
■龍:
まだ僕らも今年入籍したばかりで。結婚前も含めると、一緒にいるようになって三年目くらいなんです。一緒に旅をして、世界を見る中で、お互いの言葉や価値観の違いが、良い意味で見えるといいなぁって思っていました。僕も旅好きで色んな所をたくさん見てきているし、かやさんも色んな旅をしてきたけれど、一緒の旅ってこれまでなかったので。
ーご予約のフォームやご参加の動機は、かやさんがお送りくださいましたよね。
■伽
そうですね。予約した時は龍さんの体調が安定しなくて。抗うつ剤が馴染む前だったのもあるのかも。自分の身体の置きどころがわからないというか・・・。歩けなくなったもんね。東京の総合病院に転院して典型的な適応障害と診断されたんですが。「なんか変だ」ってなった時点では、動悸と微熱がだらだらと続いていました。オンライン会議をひとつ終えるたびに崩れるように仮眠してね。郡上に行くことは決まっているのになかなか龍さんの手が動かないので、私が勝手に予約したんです。
■龍:
五月下旬に歩けなくなって。六月半ばに病院で「うつ」だという風に診断を受けたんですよね。それで仕事は七月頭で休職にして。そこからはだいぶ気が楽になったんですけど。ただ、気持ちは元気なんだけれど、動いたらすぐ凹むという日々が続きました。
■伽
本人も自分がどこまでできるか、できないのか、判断できない。自分の体力がどのくらいあるかさえ認識してなくて、急に限界が来てしまう。頭も身体も気持ちも、全部バラバラだったよね。
ーそうした流れや背景があった中で、八月にあわ居にお越し頂いたわけですが、ご予約の時点で二つのことが気になっているということをご記載頂いていました。一つ目は龍さん個人としてこれからどうしていくかという部分。もう一つがご夫婦としてこれからどうしていこうかと言う部分。「霧がかかったような状態」という表現もされていましたね。そうした中でご参加いただいたわけですが、当日はお二人にとってどんな場でしたか??
■龍
まずあわ居に到着するまでに、あまりに山奥でびっくりしました。あわ居の手前にある橋を見たときはちょっと心折れましたもんね。これは車で渡れない気がするって(笑)。あわ居は手前に橋があることで、そこだけは良い意味で「私たち(あわ居)の世界」っていうのを醸している気がする。
それで、あわ居の館内に入ったわけですが、入った時は、嬉しかったですね。空間がすごく嬉しかった。何て言うんだろう・・・・・・。主(あるじ)が見えるというか。そこの空間を作った主が誰なのかということが、はっきりと分かる空間だなっていうことを感じました。それは僕にとってはすごく喜ばしいことで。ここにいる主が、この空間でもあるっていうか・・・。
お茶って主客があるけれど、主の方が場をとりしきるわけじゃないですか。でもいわゆるホテルって逆で、お客様は神様って感じで、要望にはなんでも応えるのがサービスなわけですよね。その点で言った時に、あわ居は空間から、主(あるじ)の精神性だったりとか、人柄だったりとかが、まるっと感じられたというか。主自身が「わたしです」って言ってくれてる空間であることが、すごく嬉しかったですね。建物自体はたぶん前に住まれていた方から引き継いだものだと思うんですが、和紙が張られていたり、モロッコの色があったりして、随所に主のアイデンティティが感じられた。ご家族がそこに住んでいる場所でもあるから、生活と仕事を切り離さないことを大事にされている感じもしましたし。なんていうかそういうのは空間から読み取れてしまうものだと僕は思うんですよね。
お風呂に入っていた、よもぎも印象に残っています。たぶん周辺で自ら栽培して、自ら用意されたものだと思うんですが、そこにもやっぱり人が見えるじゃないですか。あとは、食前のあたたかいカクテルというか、リンゴジュースになにかが入ったおいしいやつ(笑)。何が入っているのかよくわからないけれど、その辺りの物も入れつつ、作られたんだと思うんですけど。
あとは雨の音も印象に残っていますね。普段は雨の音ってすごく嫌なのに。あわ居の周りを流れる川の音も印象深い。あわ居の空間だけじゃなくて、あの日の外の環境まで含めて、「あの日に雨が降っていたんだなぁ」っていうことや、あの日のことを覚えているって言うんですかね。普段はたぶんそんなことはないんですけど。あの日のことは、なぜか建物の外のことまで覚えています。客室の窓から少ししっとりした空気が流れてきたこともすごく鮮明に覚えている。
■伽
わたしもぼんやりと、でも鮮明に覚えてます。橋を渡って、川を越えて、母屋に入る。主観があって俯瞰もしていて、青みがかった深緑の奥に進むテールランプの赤が橙や茶色や灰色に溶けていく。音や湿度、灯りも含めて、あわ居の空間と時間に深く包まれる静謐さがありました。あたらしい領域に入るのに、守られているようにも感じられた。
ときどき写真に撮ったときのことしか覚えていられなくなる時期があるんです。撮影対象やそれに直接紐づくものではなく、シャッターを切る前後の感情や情景を動作に重ねた記憶なんですが。そういうときは撮っていないときのことがすっぽり抜け落ちてしまう。あまりいい状態じゃないんです。あわ居はその感覚とはかけ離れていて、撮らずとも皮膚や呼吸に近いところでちゃんと記録している。
■龍:
お茶も出してもらったよね、よもぎの。あの時はちょっと古い湯のみで。なんかそういうことばっかり覚えてるよね。
■伽:
ねえ、あれは儀式だったと思うの。よもぎ茶とよもぎ湯でならされて、よもぎとりんごの食前酒で外からも内からもすっかりほだされてしまう。でも普段はそんなに覚えていないですよ、もっと流してる。だからこそあの時間は特別なものだったと感じるのかもしれない。時間が過ぎるのが惜しい。でも過ぎていく時間に焦ったり、終わるのが怖いっていうのとはまた違って。
ーなるほど。面白いですね。お食事含め、対話の時間の中で、印象深かったエピソードなどはありますか??
■龍:
僕は食べるのが好きなので、結構忙しかったんですよ(笑)。「おー、なんだこの食べ物は」とか「なんか色んな味がする」っていうのと、でも崇さんが話してくるのを「あぁぁぁ」って聞いているっていう(笑)。内省を深めながら話をしていると、料理が出てきて「おいしそう、あったかいうちに早く食べなきゃ」っていう(笑)。でも、モロッコ料理、すごくおいしかったし、楽しかったです。やっぱりとうもろこしをよく覚えている。はじめてご自身で育てたとうもろこしということでしたよね。
対話の部分で言うと、まずはとても楽しかった。自分の中で、前から楽しんでいるし、親しんでもいた価値観といったら良いんですかね・・・。自分が組織の代表であることや、仕事のことを考えると、社会人として利益を出して、責任を果たし、信頼を勝ち取るっていうことが今までどうしても先にきてしまっていたんです。でも本当に一番自分がわくわくする価値観としては・・・。『気流の鳴る音(*1)』っていう本知ってますか?僕が二十歳の頃に読んで、一番最初に感動した本なんですが。あまりに衝撃的で、一番覚えている本。で、あの本を通して僕は、自分の生きている世界と他人の生きている世界が異なっているんだっていうことの面白味を感じて。
メキシコ・インディオの人が、草を切る前に祈りを捧げたり、カラスが飛んだら家に走って逃げ帰るという話が本には書かれているんですが、同じ人間であるはずなのに、生きている世界が、自分達とは全然違う。で、僕はその方が居心地が良いと思っていて。グローバル資本主義とか、フラット化する社会とかって言ってしまった時に、どこに住んでもみんな同じ人間だったらすごく切ないなって。で、僕はそうはなりたくなかったんだけれど、なんかそういう方向にどうやら走ってしまっていたみたいで。「街を良くするためには、そこで勝ち残るしかない」って。でも実はそこに全然自分自身わくわくしていなかったんだと思います。社会に蔓延る自己責任論だったりとか、希望のもてない感じとかもあって、社会を守ろうっていうプロパガンダがあったりもしますよね。
そういうのを一旦無視して、その上で、そこらへんに色んな世界が広がっていること、色んな世界を生きている人がいることを感じとっていくっていうことが大事な気がしました。僕にとっては、崇さんも、自分とは全く違う世界に生きている人だって言う風に見えて。それもあってか、僕も「自分にしかない世界に生きたかったんだよなぁ」っていうのを、あわ居で想い出した気がします。
最後にお薦めしてもらった『複雑さを生きる(*2)』も買ってみて読んでみたんですが、久々にあまり分からなかったんです。でもそれがすごく心地良かった。わからないっていうのは、僕にとっては居心地の良いことで。違う思考回路、違う世界観で書かれているなっていうことが感じられるということだから。自分にはまだそれらのことが理解できていないっていうことが分かったのと同時に、それを楽しんでいましたね。
■伽:
私は散文や短歌みたいな、言葉で表現するのは好きなのですが、会話や即興が得意でなくて。そういう意味で一日目の夜は安心して、おいしく食べながら龍さんと崇さんの話に耳を傾けていました(笑)。はじめてのモロッコ料理は、爽やかなのにやさしくて、スパイスやハーブの香りがしました。美佳子さんがお料理を運んできてくれるたびに、対話の妨げにならないように間を読んで、モロッコやこの辺りのことを教えてくれる。到着したときはもう薄暗かったので、まだ見ぬ石徹白の土地や家族の畑、美佳子さんに補完されていく想像上のモロッコをかわりばんこに思い浮かべながらいただきました。
対話を重ねていく中で、龍さんがそれまで「ぎゅ」って頑なに、塊になっていたのが、だんだんほどけていくのが見えて。「ああ、来てよかったなぁ」って。内容はわたしの理解が追いつかないこともあったけど、龍さんの中で緩まってきているのはわかる。
二日目の朝、夫婦としてこれからどうしていこうかというところについては、私が言葉になる手前の霧がかった部分をどうしても崇さんに伝えられなくて。先に進めなくなってしまった。そこで「あ、龍さんと話してるときと全く同じだ」って、はっとして(笑)。ずっと一緒にいるんだからわかってほしいと私は思っていたんだなって、崇さんを通して気がつきました。
■龍:
二日目の朝は割と崇さんと美佳子さんの話を聴いていた印象が強いんですが、あわ居が今の形での運営に至るまでのお話もしてくださって。美佳子さんが料理をつくるのが丁寧な分、提供がとてもゆっくりになってしまうんだけれど、崇さんが対話をすることで、時間を稼ぎ(笑)、そこがうまく相殺される話とか(笑)。世間一般からすれば弱みになるような部分を、強みに変えてしまうっていうか。あとは、誰しもその人の突出した部分(=瘤:こぶ)を持っていて、それは社会的にはあまり役にたたない部分かもしれないけれど、もしかしたら百人に一人くらいには、ものすごく良い形でその瘤が刺さるかもしれないってお話もありましたよね。そういう瘤を顕わにして、他者と関わっていける社会であっても良いんじゃないかっていう。
そのあたりのお話を聞きながら、「こういう二人もいるんだなぁ」って。僕が結婚を決意するきっかけになった、ある硝子作家のご夫婦がいて。もし旦那さんが亡くなったら、もう硝子を作らなくなるって奥様はおっしゃっているんです。僕はどちらかと言うと、お互いが自立していた方が良いんじゃないかって思っていたので、そういうのは少し勿体ないというか、危ないんじゃないかって思っていたんです。でも、いつ行っても素敵なご夫婦で。たぶん世の中の本を読めば、お互いが自立していた方が安心だっていうのがあると思うんですが、でもそれも一つの考え方に過ぎないんだなって。だから、崇さんや美佳子さんの生き方や関係も、そういうのもあって良いんだなっていうことを思いましたね。
■伽:
対話のテーマによるところが大きいのかもしれないけど、夜の崇さんと、朝の崇さんが全然違って(笑)。二日目の朝はこどもたちを学校に送り出したあとで、美佳子さんも対話に参加してくれたんです。家族とやりとりの中で、崇さんがお父さんになったり、夫になったり、個としての崇さんになったりしながら、怒りとか喜びとか哀しみとか、色んな感情がポコポコ湧いてくるのがとっても人間で。美佳子さんは美佳子さんで、崇さんとは全く違うリズムを持っているので、一見どうやって折り合いをつけてるのか不思議なのに納得してしまう説得力がありました。「そっか、いいのか」って。おふたりを見ていて「また来たいな」って思いました。
■龍:
崇さんの娘さんが、二日目の朝、眼にゴミか何かが入って、崇さんが色々おろおろして、処置をしたり、でも「お客さん来られてるから戻らないといけないんだ」とか言ったりもしていましたよね(笑)。
ー良くも悪くも僕らのプライベートな部分が出てしまっていたということですね(笑)
■伽:
なんて言えば良いんだろう・・・。生きるっていうのはそんなに美しいものじゃない、だからこそ美しいと言うか。「この現実と試行錯誤の積み重ねが我々であり、夫婦である」って、昔の話や現在の話を往還する中で、間接的に言ってもらったような。だからプライベートは出てしまったのではなく、出してくれた。動物の群れで年長者がまずはやってみせて、それを若者が真似たり学んだりするのに似ているなと思いました。
ーそうした体感が当日あった中で、何か間接的にでも、その後の生活にちょっとした変化が出てきている部分はありますか?
■龍:
自分の瘤というか、鍛えた気もないのに、ここだけなぜが出てしまっているっていう、そういう部分を愛でるようになった気はしますね。社会に自分を合わせにいくんじゃなくて、より怠惰な方に向かうようになったなぁと。実は会社の代表を降りまして、今日から平社員になったんです。今日が平社員一日目。使命とか大義とかを手放して、直観に委ねてみてはどうかっていう話が対話のなかであったと思うんですが、平社員になったこともあって、使命とか大義を最近、手放しつつある感じがあるんです。想いだけではやっぱり駄目だったみたいで。
あとは、あわ居で感じた「楽しかったなぁ」っていう自分の感覚とか気持ち良さを通して、「あ、そうだ自分は前はこういうことを楽しんでいたんだな」っていう記憶が自分の中に蘇ってきた所はあると思います。「こういうのが楽しかったんじゃん」って。使命とか大義を手放して、そっちの楽しい方向にもっと行こうって思えていますね。あれから良くも悪くも仕事に関する本を読んでいないんです。社会的に強くなろうっていうのはそっとしておいて、今自分が関心のあるのはここだっていう所に焦点がいってるのかな。自分がわくわくする感覚を取り戻している感じがありますね。
■伽:
わたしは、というかふたりの話ですが、あの後も順調に夫婦喧嘩を繰り返していて(笑)。お互いに消耗するのであんまり笑えないんだけど、この間もちょっと大きな喧嘩があったんです。でもそうやって生きていくしかないのかなって。わからない、わかりあえないを、すり合わせながら。そこに対しての感情はぱっきり明朗ではないんですけど、でもただただ陰鬱なわけではなくて。程よい諦めの中でやっていこうかなって今は思えています。
あと、あの時のあわ居での時間や空間を、今でも想い出していますね。現実逃避か白昼夢かはわからないけど、脳みそだけぽっとそこに飛ばして。そろそろ起きなきゃいけないけれど、まだ眠い時とかに、あの朝に行ってしまう。
あわ居での二日目の朝、わたしがまだお布団のぬくもりの中にいる間に龍さんはひとりで散歩に出掛けて、外もすごく良かったよって勧めてくれてるんですけど、私は全然身体が動かなくて。歩いてみても部屋から数歩の廊下の壺とか、花とか、隣の部屋の崇さんの書を眺めたりしてた。今考えてみると、私はそこに居たかったんだなって。緑や光が風に揺れるのをただ見ていたい。余白に抱きしめられながら、この場所を味わっていたい。その感覚は、私の小さい頃の記憶と結びついているような気もします。
私がそろそろ方向性を決めなければならない時だったと思うんです。兄が「将来何になるつもりなの?」と聞くので、私は「ちょっと薄暗いところでタバコを吸いながら本を読んでいたい」って答えたんです。すると兄は「それはお母さんじゃないか」って。記憶の中の母は今のわたしと同じくらいの歳で、想像するに彼女にとってちょっと大変な時期だった。でも彼女が台所で本を読むときは、しがらみや役割から離れて、唯一ひとりで彼女らしくいられる時間だったと思うんです。湿度や明るさが、当時暮らしていた家の台所と似ていて。自分が心地よいと思う状況とあわ居が結びついているんだと思います。
(*1) 真木悠介『気流の鳴る音―交響するコミューン』(ちくま学芸文庫)
(*2)安冨歩『複雑さを生きる』安富歩(岩波書店)
インタビュー実施日:9月25日
聞き手:岩瀬崇(あわ居)