体験者インタビュー集

 

 

vol.19

       野村裕さん /  1965年生まれ

2022年3月に「あわ居別棟」を体験(1泊2日)


 

ー野村さんにはこれまでに5回ほど、あわ居別棟にお泊りいただきました。今日は最も印象深い時間だったと事前に教えてくださった、初回の滞在についてインタビューをさせていただければと思っています。まずは初回の滞在の中で印象的だった時間や出来事についてお伺いできますか?

 

 

私は二〇二一年の夏に初めて石徹白をお伺いしたのですが、あわ居さんにはじめて滞在したのは、二度目の石徹白来訪の時です。二〇二二年の三月、まだ雪が残っている季節に、息子と二人であわ居別棟に泊めさせていただきました。チェックインの時に、別棟にご案内いただいた時に、「これをまるごと貸していただけるんですか?」っていうところにまずびっくりしたことをよく覚えています。

 

その時は一泊させていただいたわけですが、何と言いますか、本当に静かで……「静謐」ってまさにこういう感じなんだろうなぁと。そしてあんなに深く眠ったのは、後にも先にもあの時だけかなぁというくらいに、その日はよく眠れた記憶がありますね。うまく言葉にできないですが、「静謐」というのは別棟の周りの積雪が音を吸収して、ノイズが少なかったということも、ひとつの要因だったのかもしれないですが、でもそういう部分だけの話でもないのかなと思っていて。あれくらい深く眠れたというのは、それ以外に、何か心を安らげてもらえる何かがあったんだろうなぁと私としては思っています。

 

私自身はあわ居別棟に対して、独立して川の畔に佇んでいる場所だという印象があって、そこでは石徹白とか白山に直に対峙しているという感じになるんです。もちろん石徹白という場所自体に独特な雰囲気がもともと備わっているという面はあるのですが、でもあわ居別棟で寝泊まりさせていただくと、よりリアルにと言いますか、石徹白の水とか空気、森、山といったものに直接触れているような感覚になれる。そうしたことを可能にするあわ居別棟の独特の空気感、それは本当にありがたいものだなぁと思いますね。一緒に滞在した息子も同じ印象を抱いていたこともとても印象的です。

 

 

ー非常に興味深いお話ですね。今お話ししてくださった、自然に直にアクセスできる状態と、先ほどの「静謐」というお言葉には何かしら関連があるのでしょうか。

 

 

そうですね、そこには関連があるでしょうね。あとは自分自身のタイミングも要素としてあったのかもしれないなぁとは思います。当時、勉強会を通じてゆるやかに交流させていただいた加藤健志郎さんが、石徹白の地域おこし協力隊に着任されるということから、石徹白のことを知り、これは面白い場所だなぁとまずは思いました。加えて、私自身が岐阜県出身ということもあって、加藤さんからも「一度ぜひ遊びにいらしてください」とお誘いいただいて。それで二〇二一年に初めて石徹白を訪れたんですね。

 

当時は自分自身が、いろいろな面で、あまりうまくいっていない時期でした。私は公務員の仕事をしているのですが、仕事としてはそれまでは、わりと順調というか、比較的周りからも頼りにされて、大きな仕事を任されたりもしていたので、やりがいを感じつつ働いていた。しかし、少し人間関係などでいろいろとあって、左遷ということではないですが、自分がやりがいを感じていた仕事からはずされてしまうというようなことが起こったんです。そうしたなかで、「これ以上、この組織にいても仕方がないのかなぁ」とか「じゃあそうすれば良いのかなぁ」といったことを考えないといけないような、そういう時期だったんです。加えて、プライベートの面で言えば、二人の子どもが、大人と子どもの境目くらいの年齢にちょうどさしかかってきたなかで、上の娘は不登校になり、それで結局は高校を中退せざるをえなくなってしまった。日本社会は中卒だとなかなか居場所を探すのが難しい社会であるわけですが、でも行けないものは行けないという状況が目の前にあるなかで、中卒の子をどうすれば良いのか、そこで自分は何ができるのかという部分で、すごく頭を悩ませていた時期でもありました。思ったようにうまくいかないと、それから逃げたくなったりもしますしね。ですので、不眠症ということではないですが、心安らかに眠るということが日常の中でできていない日々が続いていたんです。

 

ずっと東京での生活を三十数年続けてきた中で、少しくたびれているというか、いろんなところが錆びついているというか……だから、あの時あれだけ深く眠れたというのは、そうした当時の背景があった中で、どこか精神的に安らげた部分があったのかなと。五年経った今でも覚えているくらいに、すっきりとした感覚を伴う目覚めだったんです。錆が落ちた感覚がそこにはありました。その後も継続して、年に1,2回は石徹白やあわ居を訪れている中で、もちろん最初に感じた衝撃というのは薄らぐ面はありますが、でもいつお伺いしても、独特の空気感や水の甘さなどがあって、毎回錆が落ちる感覚はありますね。

 

加えて、石徹白に移住をされて様々に活動をされている方々とお話しするなかで、悩んでいる自分がどうでもよくなったというか。「そんなに悩むほどの話ではないのかもなぁ」と、そんなことを思ったんです。石徹白との出会いは、本当に偶然だったわけですが、私にとっては本当にありがたいものだったと思いますね。自分で言うのも何ですが、(初めて石徹白を訪れた)五年前に比べれば、元気に楽しく人生をやっていると思っています。職場の環境が突然良くなるというわけではないですし、子どもたちが悪戦苦闘しているのは相変わらずではあります。でも上の娘とはいろいろと対話をしていく中で、通信高校を卒業することを目指してくれることになり、その中で勉強することの必要性を本人なりに感じたんでしょうね……「大学に行ってみたい」ということを言い出したんです。だから今、娘は「一年だけ」という約束で浪人生をしていて、つい先日、大学入学共通テストを終えました。第一志望を狙える点数ではなかったのですが、それでも「こんなに点数がとれるんだ」「よくやっているなぁ」と、親である自分がびっくりするくらいの結果だったんです……。

 

今考えると、五年前の疲れていた状況のなかで、子どもに向かって「ああしろこうしろ」と発していた言葉は、子どもにとって「あぁそうだね」と思えるものになっていなかったんじゃないのかなと、今となってはそう思っているんです。いろいろなことがあるけれど、でもその中で自分自身が何をやりたいのか、どうなりたいのかを、自分なりに選んでいくという……それが人生なのだということは、当たり前のことと言えば当たり前なんでしょうけれど、でも良い大学を出て、少し難しめの試験を受けて、三十数年も公務員という安定職種で胡坐をかいて仕事をするという、そんなことしか自分はしてきていなかったので……だから石徹白やあわ居での時間は、そんな当たり前のことを再確認したり、素直にそれを言葉にしたり、あるいはそれを子どもに向かって語り掛けたりするにあたって、とても大事なきっかけだったなと思っています。

 

その中で、自分自身も心が軽くなって、公務員の世界に閉じずに、社会起業家の方をはじめ、いろいろな方と交流し始めるようにもなりました。そんなことはこれまで思いつきもしなかった。だからこれまではすごく狭い世界の中でしか物事を考えていなかったな、それはちょっともったいなかったなぁということを、つくづく感じているところです。有限な時間の中で、逃げていても仕方がないわけで、できるところから向き合っていこうと、ただそれだけのことなんですよね。やれること、やってみたいことをとにかくやる。それが生きることの意味であると。だからこれまでの生き方の歯車を逆回転させるような、そんな形になってきていると思います。これまで自分が経験してきたものを、前向きに活かすためにどういうことができるのか、いろんな方やいろんな活動がある中で、自分自身の人生をどう活かしていけるのか、自分には何ができるのか……だいたいうまくやっている方って楽しく活動されていますよね、そういう意味でも、そのあたりのことについて、これから向き合っていければなと、そういうことを思っています。

 

 

ーなるほど。今お話を伺いながら、野村さんにとってのこの五年間というのは、自発性や主体性、自律性、あるいは生きる悦びといったものを、再獲得する時間でもあったのかなという印象を抱きました。それを通じて、お子さんやお仕事とのかかわり方にも変化が生じてくるというような……。

 

 

なるほど……自分では思いもつかなかったのですが、今お話を伺いながら、まさにそういうことなんだろうなと思いました。この五年間、自分がやっていたことを一言で言うとすれば、確かにそれは石徹白やあわ居との出会いを起点として、自分の自発性や主体性、自律性を再獲得することに足掻いていた、そういうことになるのだと思います。その前の、仕事をバリバリやっていた頃は、自分自身がそうしたいからしていたというよりも、周りの期待があって、周りの期待に応えるために、ガリガリやっていて……でもそれは、主体性を失った状態といいますか、周りの期待に応えることが自分の存在価値であるかのようになっているということです。そこでは気が狂うみたいに残業ばかりしていて、週末はくたびれて泥のように眠って、あまり家族とも向き合っていないし、自分自身とも向き合えていない……。

 

そもそも公務員の仕事に就いたのも、今から振り返ればあまり主体的な理由があったわけでもないんです。私の母親は養子で、父親も入り婿なんですが、そこには古い家を途切れさせないようにという理由があった。その家の先代は戦前に国家公務員をやった後、奈良県知事を勤め、奈良銀行を作った方でした。だから私が国家公務員になったのも、その先代の影響がすごく強い。私が国家公務員になることで親は喜んでくれるから、「家の期待に応えられれば良いのかな」という動機付けで、それを選んだところが強いんですね。そして、勤め始めてからは、ほどほどに働いていたというのが正直なところなのですが、ただ九〇年代の終わりに割と大きめの仕事をした時の上司が、岐阜県出身でかつ自分自身と同じ大学出身ということもあって、すごく面倒を見てくださって。そうしたなかで、自分のスキルも上がっていって、「はいじゃあ、野村君これをやって」「これをやるのは野村さんしかいないでしょ」というような感じになってしまって、そのままその状況に慣れてしまったというところがありました。周りの期待に応えることは大事なことだと思いますし、それ自体に後悔があるわけではないんですが、馬鹿みたいに仕事ばかりして、自分自身の幅を広げるとか、世の中がどんどんと変わっていく中で世の中のことを学ぶとか、子どもが大きくなる過程で父親の果たす役割について考えるとか……そうしたことをほったらかしてきていたというところがあるなぁというふうに思いますね。だから、そういう意味では、困難に陥ったことで、自分自身や子どもと向き合う機会をもらえたわけですから、そういう意味ではラッキーだったと思いますね。

 

 

ー今日は貴重なお話をありがとうございました。最後に是非一言、あわ居についてお言葉を頂けるとうれしい限りです。

 

 

石徹白はもともと白山信仰において重要な拠点で、一年間に相当な数の方が白山に登ったとお伺いしています。しかし、私が以前、天気の良い日に銚子ヶ峰を登った時には、一人も登山客とすれ違わなかったんです。かつて存在していた山岳信仰が、どこかにいってしまったということなのかもしれないなぁということを、自分なりにそこで考えさせられました。でも石徹白は、今も奥深い場所にあり続けていて、水とか空気、森や山などからとてもインスピレーションを与えられる要素を持っていると思っています。石徹白でしか感じられない心の安らぎがたしかにある。だから山岳信仰は、もしかしたらかなり薄れてしまった、あるいはなくなってしまったのかもしれないですが、山岳信仰とはまた違った形で、あわ居がそれに類した価値を提供されているのかなと、自分としてはそういうふうに捉えられる気がしています。かつての白山信仰のあり方とは異なる、現代版の白山信仰を形にされていると言いますか……。

 

さっきも「錆が落ちる」という表現を使いましたが、昔の社会においても生活がつらかったりとか、いろんな苦しいことに直面したりとかいろいろなことがある中で、白山信仰が求められていたのだと思います。信仰というのは逃げではなく、そこでそれぞれに感じるものがあって、苦しいこともあるけれど楽しく生きていけば良いじゃないかと、そういう心持ちになれるものだと私は思っています。その意味では昔も今も同じだとも思うんです。だから、あわ居別棟ですごくすっきりとした朝の目覚めを体感したとか、生きるのあればもう少し楽しく、主体性をもって動くようにしてみようと思えたことは、いろんなきっかけや気づきを与えていただいた、もっと言えば生き方を見つめ直すきっかけを与えられたという意味で、現代版の白山信仰なのではないかと、そんなことをインタビューの中であらためて考えさせられましたね。

 

 

インタビュー実施日:2025年1月26日

聞き手:岩瀬崇(あわ居)