対談タイトル 

「わからないという賭け」

 

目の前の人に、何をすれば良いのかわからない。不確実さを抱えながら展開するあわ居の時間について、「外部」「賭け」「かけがえのなさ」をキーワードとしながらその実像に迫ります。

目次

・知らない人だからこそ

・外部に接触する

・コンピテンシーとエージェンシー

・未知に飛び込む

・かけがえのなさをめぐる

・部分と全体

・隔たりと重なり

・わからなさという余白

・原初の場所へ

・二重性あるいは共同性


対談者:井谷信彦さん(教育学者)

1980年生まれ。専門は教育哲学・臨床教育学。受苦、情感、即興など、言葉にして説明したとたんに元来の特質が失われてしまう現象に関心を寄せながら、ひとが生きることと学ぶことのありうべき関係を探索している。著書に、『教育の世界が開かれるとき』世織書房(共編著)、『教育学のパトス論的展開』東京大学出版会(共著)、『存在論と宙吊りの教育学』京都大学学術出版会など。即興演劇、即興音楽など、即興と名のつく営みに目がないインプロホリック。遊ぶ/学ぶインプロゲーム主催。武庫川女子大学教育学部准教授。


 

●知らない人だからこそ

 

 

井谷:

このたびは貴重な機会をいただきありがとうございます。お互いに著作やWebサイトをとおしてしか知らなかった方と、こうして改めて面と向かって話をしているというのは、なんだか不思議な感覚もありますね。考えてみれば、岩瀬さんたちがあわ居で営まれていることも、まず知らない人がやってくるところから始まりますよね。だとするとやはり不思議なのが、知らない人なのに、どうやって歓迎できるんだろう、なぜ歓迎できるんだろうということです。知らない人をいかに出迎えるのかということですね。ゲストの方をお迎えするときに、どういう佇まいでおられるのかなぁと。例えばこの人は社長でとか、この人は高名な小説家でとか、素晴らしい人格を持った人で……っていうかたちで、何かその人について知っているから、歓迎をしているわけではないですよね。

 

 

岩瀬:

うーん、たしかになぜなのでしょう……それについてはこれまで考えたことがなかったので、考えながら話すことになるとは思うのですが……友人の紹介であわ居に来られる場合ももちろんありますけど、全く知らないところからのお問い合わせも多々あるので、確かに普通に考えたら、ちょっとドキッとする部分がありますよね。ただ僕も妻も、知らない人が来るということに対して、あまり抵抗感がないっていう部分はまずあるのかなとは思います。

 

あとは、人間には近しい関係だからこそできることがある一方で、全くの他人だからこそできることもあるのかな、ということは思っていて、おそらくあわ居においては、自分たちは無縁の人間として、来訪者の方と関わっているのだと思います。自分たちが無縁の人間だからこそ、話せること、落とせるもの、剥がせるものがあるんじゃないのかなという気がします。日常生活のなかだと、自分の話ってなかなかできないですよね。色んな人間関係のバランスであったりとか、社会的な役割であるとか、そこで求められる規範とか、そういったものにがんじがらめにされている部分が、今の社会においてはとくに大きい気がしています。そうしたものをいったん剥がしたうえで、人対人で関わりたいっていう欲求が、自分たちは強いんだと思います。

 

 

井谷:

関わりたいという出発点が、まずはあると。

 

 

岩瀬:

自分たち自身も、社会の中で、役割や機能といったところでのふるまいは絶対的に求められますし、もちろんそれを遂行しないと社会生活は維持されないところがありますよね。だから、そこの部分はそこの部分としてまずはしなきゃいけないっていうところがある。でもそうとは思いながらも、自分たち自身も、色々なものを剥がしたところでの自分たちを知りたいし、そこでしか出てこない自分自身を見たい、他者と出会い続けていきたいっていうところがあるんだと思います。

 

 

井谷:

去年初めてメールをいただいて、最初にあわ居のホームページを拝見したとき、ここは訪れる人を出迎える、それだけのために作られた場所だなという印象をもったんですね。宿泊や観光が主な目的ではなく、他者を迎え入れるっていうこと自体に、大事にされたいポイントがあるのかなと感じたのを覚えています。

 

今回、あわ居の「体験者インタビュー(*1)」を読ませていただいたのですが、体験者の菊地さんが語られていたことで、「一人の人として迎え入れられている(*2)」という言葉がありました。それはすごくなるほどと思って。いまも岩瀬さんの話のなかで、役割とか機能を超えてっていう言葉がありましたけど、そことも繋がってくるのかなぁと。あわ居にはもしかしたら、知らない人だからこそ、っていう力学が働いているのではないか。会社の同僚だと会社の役割に縛られた会話になってしまうし、家族でさえ妻や夫、父親、母親、息子、娘みたいな役割のなかで、語れること、語れないことがありますよね。そうしたなかで、知らない人だからこそ、一人の人間として向かい合うことができるのだとしたら、それは非常に興味深い。

 

 

岩瀬:

そういう意味でも、毎回やっぱりドキドキしますし、毎回どうしたら良いのかわからない(笑)。何回やっても慣れないですね。

 

 

井谷:

慣れない。それはすごく面白い。相手のことを知っているという前提で関わるのとは、異なる関わり方になるっていうことですよね。例えばお医者さんは、わかっていること(知識)を前提とした関わり方をするわけです。「検査の結果、あなたはインフルエンザです」とか「これにはこういう薬を、こういう治療を」とか。あるいは「あなたは糖尿病なので、これからはこうしてください」とか。それが百パーセントではないにしても、こうすればこうなるよっていうこと、つまりは元々知っていることを伝える、あるいはそれを背景にした提案をする。でもあわ居がなさっていることって、そうじゃないのかもしれない……だとしたら、岩瀬さんたちは、何をされているんでしょう(笑)。あわ居では、訪れる方を一人の人として出迎えて、そこから何かが変わったり、印象深い出来事が起こったりすると。でも岩瀬さんたちは、医療の知識を駆使して治療をしたり、学校の先生が子どもに教えるように何かを教えているのではないのだとしたら……いったい何をされているんでしょうか。

 

 

 

●外部に接触する

 

 

岩瀬:

うーん……直接のお答えにはならないかもしれないですが、例えばあわ居で一泊二日で実施している「ことばが生まれる場所」のご予約を受けるにしても、あるいは事前にオンラインで相談を受けて、それを踏まえた個別の提案をする場合においてもそうですけど、そのこと自体とても怖い行為だなと自分自身は思っています。というのが、何が起きれば来訪される方にとってのベストになるのかが分からないのに、それでもその時点で自分たちはそれを引き受けているからです。もちろん、当日になってその方が現地に来られても、どうすれば良いのかはわかりません。それは来訪者の方もおそらく同様です。ご本人も自分が何を求めているのか、おそらくよくわかっていない。

 

そのなかでひとつ思うのは、例えば「ことばが生まれる場所」で言えば、一泊二日という時間において展開していくプロセスへの信頼は、自分自身、たしかに持てているんだと思います。「ことばが生まれる場所」の流れで言えば、チェックインをして、お茶をしながらいろいろ話をし、その後お風呂があり、食事があり、食事をしながら対話をし……といったようにひとつひとつプロセスが進んでいきますよね。もちろんその現場にいる時は、どうしたら良いのかわからないんですが、でもそのなかでもどうしたら良いのかを、来訪者の方と一緒に時間をかけて探索しているというところがある。わからないなかで、それでも、その都度手を打っていくというか……身体的に感知されるところで「こっちかな」とか、あるいは「こっちじゃないかな」みたいなかたちで、即興的に、応答関係のなかで道を探っていく。何かが生じるところを探っていく。人それぞれいろいろと複雑に絡まりあったものがありますし、あれこれ試行錯誤を重ねるわけです。

 

そのなかで、じゃあ最終的に何が生じれば良いのかという部分で言えば、それは「外部との接触」だと思っています。つまりそれまでの枠組みから、一歩外に出る瞬間を作るということ。それは言語的なところで生じる場合もあれば、非言語的なところで生じる場合もあって、人それぞれ、ケースによってまったく異なります。そういった瞬間が生じた時に、自分たちとしては手ごたえを感じるんです。少し遠回りしましたが、以上を踏まえて、「自分たちはあわ居で何をしているのか?」という問いに答えるとすれば、それは「外部に接触する瞬間に至るプロセスに同伴している」ということになると思います。つまりは外部や出来事を共につくっている。

 

 

井谷:

なるほど、すごく面白いですね。そうすると、ゲストの方が外部に接触するうえでは、やっぱり岩瀬さんは知っている人ではダメだということですよね。知っている人が、知っている通りにやってくれることは、なんら外部ではないから。

 

 

岩瀬:

なるほど……確かにそうですね。

 

 

井谷:

その人のことをよく知ったうえで関わるお仕事、そういう関わり方というのはもちろんあるとは思います。でもそれは逆に言うと、いま目の前にいて、どうしたら良いのかわからず困っている人に向き合うことを、ある種さぼっていることになる場合もある。そこでは(目の前の人を)情報に還元してしまっている。知識や情報に基づいて関わる仕事も大事だとは思うけれど、そこでは目の前にいる人と関われてはいない。情報と関わっている。

 

例えば色んな歯医者があると思いますが、多くの場合、治療のときは大きな布を顔の上半分にかぶせられますよね。外科で言えば、手術のときは患部だけ、つまり施術する所だけが出るように布がかぶせられる。お医者さんにとっては、ああいう状態が、関わるということなのかもしれない。その人をできるだけ見えないようにして、患部とか術部だけが見えるようにして関わる。つまりその人自身とは関わっていない。奥から二番目の下の歯とだけ関わりたい、できるだけそこだけを見たい。もちろん、歯医者では、水しぶきが顔にかかるからっていうことを言われるから、それはそうなのかもしれないけれど(笑)。そうした患部とか術部とだけ関わるっていう関わり方に対して、そうではない関わり方をしようとすると、知っているということが、逆に邪魔になることがあるのかもしれないですね。

 

 

岩瀬:

なるほど。

 

 

井谷:

学校教育で言えば、「この子はこういう子だから」という関わり方をしてしまうと、その日のその子とうまく出会えなかったり、向き合えなかったりしますよね。それと似ているかもしれない。「あなたのこと知っていますよ」ってなってしまうと、その情報で見てしまって、一人の人として関わることが、できなくなってしまうのかもしれない。「この人は政治家で、こういう人生を今まで歩んできて、色々苦労もあったけれど、いまは成功した」というような情報から関わると、「そういう人なんだぁ」ってなってしまうじゃないですか。「先生、大変でしたね」みたいなね(笑)。あるいは職業でなくても、「こういう経歴を歩んできて、何歳のときにこういう大きな病気をして、そこから回復して、子どもを二人育てておられる」というような情報を最初に知って、そこから関わると、そういう人として関わってしまうという部分があったりしますよね。もちろん、そういうことを知っていても良いんだけれど、知っていることによって、関わりが阻害されることもあるかもしれないなと。いろいろと話があちこち行きましたが、岩瀬さんたちが知らない人だから向き合えるというのは、このあたりに関わる話なのかなと。

 

 

岩瀬:

今のお話は、かけがえのなさという語句にも繋がってくる気がします。属性であったり能力においての関わりというのは、社会の中で強く求められますよね。一方で、おそらくあわ居での関わりというのは、そういうところとははずれたものなのだろうと。その対比については、いろんな論者がいろんなかたちで指摘していると思いますが、例えばアルフォンソ・リンギスの「合理的共同体」と「何も共有していない者たちの共同体」の対比(*3)にも関連するところがあると思います。その人が本当の意味で、かけがえのない存在として居たりとか、自分たちもかけがえのない存在としてそこに居られている時というのは、おそらく属性やカテゴリーといったものを超えた接触、もっと言うと言語を超えた部分での応答がある気がしているんです。

 

 

 

●コンピテンシーとエージェンシー

 

 

岩瀬:

自分もすべてを追えているわけではないですけれど、最近教育の領域でもコンピテンシー(資質や能力)に対比されるエージェンシーの議論(*4)が出てきていると思います。エージェンシーの議論はティム・インゴルドをはじめとして、人類学系の本(*5)で自分は良く触れていたので、教育においてのエージェンシーの話もすっと理解できるところがあります。教育学においては、生徒エージェンシーとか、教師エージェンシーという言葉もありますよね。行為主体性と訳されることの多いエージェンシーは、論者によって、色々な解釈や捉え方があるのだとは思いますが、私自身の認識でいうと、例えば教師エージェンシーというのは、個体としての教師に備わっているものではないと考えています。つまり目の前の生徒との応答関係において、教師自身もよくわかっていないところで発露したりとか、事後的に確認されたりするもの。つまりは生徒との応答的な関係性において発現するもの、それが教師エージェンシーなのではないかと考えています。もちろんそこでは生徒エージェンシーも同時に発現していると思いますが。

 

 

 

井谷:

先ほど、菊地さんのインタビューについて少しお話をしたり、そこからご質問をしました。自分としてはそうした話を、対談の話題として持ち出してくるのが望ましいのかどうか、お会いしたこともないのにここでお話をして良いのかというところは、実はためらう部分もあるのですが(*6)、いまお話を伺っていて、ふと高橋さんのインタビューを思い出しました。あわ居の「ことばが生まれる場所」の時間に、「自分が歌います」と言って歌われたという、あのエピソード(*7)。高橋さんはパフォーマーとして、ギターを弾いて、人前で歌われている方ですよね。だからコンピテンシーの観点からすれば、歌える人のはずなんですよ。歌う能力を持っている方。でもあわ居の場では、歌うということに緊張というか、ためらいを感じている。ここで歌っても良いのかと。

 

普段の高橋さんは、彼女が歌うことでお客さんが喜んでくれるという、そういう経験をされてきた方だと思います。その意味では、あわ居で遠慮なく歌ってみせたとしても不思議ではないでしょう。でも、彼女はあわ居で歌うことで、「場の何かを止めてしまうんじゃないか」ってお話をされていて。できるかできないかという観点で言えば、できるはずの方が、改めて「歌いたい」という想いを持って、しかし「歌っても良いのだろうか?」という迷いを抱き、でも「歌います」と選んだということ。そのことが今お話しされた、コンピテンシーとエージェンシーの話と繋がってくるんじゃないかと。

 

 

岩瀬:

ひとつの語句として捉えてしまえば、同じ「歌う」ですけれど、パフォーマーとして「歌う」ことと、あわ居で僕ら二人を前に「歌う」ということの間に、差異があるというふうにも捉えられそうですよね。それはおそらく「話す」ということについても、同じことが言えるんだろうなぁと思いました。社会の中で、私たちは言語を駆使していろんなことを達成するわけですよね。プレゼンテーションであるとか、円滑な指示であるとか、色んなことを求められ、それを遂行する。コンピテンシーはここに関わってきます。一方で、あわ居で「話す」時というのは、それとはまた違う「話す」が現れているのかもしれません。あわ居においての「話す」は、個として実施することが難しかったり、日常的あるいは社会的な役割関係のなかで行ったりすることが難しい、そういう類のものなのかもしれません。

 

 

 

●未知に飛び込む

 

 

井谷:

さきほど岩瀬さんは、どうすれば良いのかわからないけれど、でもプロセスを信頼すると、そしてそのプロセスに同伴していくと、おっしゃっていましたよね。そしてわからないというところで、一緒に居られると……いま岩瀬さんの話を聞きながら、「歌う」とか「話す」ということについて、何が違うんだろうなと、私も考えていました。例えば会社でプレゼンテーションをする時というのは、おそらく理解される前提でやっているのだと思う。でも、あわ居でお話をされるとき、あるいは高橋さんが歌うと決めたときは、わかってもらえるかが、わからないと言うか……受け入れてもらえるかどうか、と言ったら良いのかな……これを話してしまったら、あるいはこれを歌ってしまったら、どうなるのかがわからない。

 

 

岩瀬:

そこでの「わからない」には、あわ居の主宰者である私たちが、それをどう受け取るかがわからないっていう部分がある一方で、その方自身がどうなってしまうのか、それもまたわからないという部分も同時にありそうですよね。それをしてしまったら、ご本人の中で何が起きるのかが、ご本人もわからない。

 

 

 

井谷:

そうですそうです。もちろん、仕事のプレゼンテーションだって失敗するかもしれないですよ。「君の企画はダメだよ」って(笑)。そう言われるかもしれない。でもそれはそれを含めて想定されていると思うんです。でもあわ居にいらして話したり、歌ったりすることは、「これをしてしまったらどうなってしまうのかがわからないぞ」というところに、自分を賭けるという感覚があるように思います。一方で、岩瀬さんたちがゲストの方と一緒に、どうしたら良いのかわからないなかで、でもプロセスの中に一緒に居ることも、一種の賭けなんだと思う。その信頼がゲストの方が賭ける瞬間、飛び込んでみる瞬間を生むのかもしれない。

 

 

 

岩瀬:

なるほど、面白いですね。今、「賭ける」というお言葉でしたけど、要は未知に飛び込んでいくということですよね。跳躍する。これまでの世界、区切っていた境界を飛び越えていったときに、どうなるのかというところ……こうすればこうなるっていうような既存のパターン、分かり切った秩序ではないところに自ら踏み出していく。

 

 

井谷:

だからこそ、わからないでいてくれる人が居るということが大事なんだと思う。「わかってますよ」とか「こうすると、こうなりますよ」という感じの人と一緒だと、その冒険はおそらくできない。岩瀬さんの「どうしたら良いかわからない」っていうのは、わからないままそこに居てくれる人がいるということですよね。そのことが、とても大事なのではないか。

 

 

岩瀬:

おそらくそこに、自分たちの手ごたえだったり、よろこびがあるんですよね。その現場を共有できるというところに。

 

 

井谷:

「外部との接触」という言い方だったかな。そういう場が拓かれるためには、知っている、わかっているというのとは違う向き合い方、出会い方が大事なのかもしれないですね。

 

 

岩瀬:

あとは細かなレベルで見れば、毎回少なからずそうなっているとは思いますが、「これはあきらかに自分たちも外に連れ出されたな」という、そうした感触をありありとその現場で実感するケースもあるんですよね。どこか自分がオートマティカルに作動したりとか……その意味でもあわ居は、自分達にとっての外部や、かけがえのなさのようなものを形作っていく場でもあるのかなと。

 

 

 

●かけがえのなさをめぐる

 

 

井谷:

かけがえのなさ。難しい言葉ですよね。例えばそれは、「この指輪は私のお婆さんの形見で、私のかけがえのない物なんです」という場合もあるだろうし、「私にとってあなたはかけがえのない伴侶です」という言い方もあるかもしれないし。「この場所は私にとって思い出深いかけがえのない場所なんです」とか。あるいはある体験を指して、「かけがえのない体験でした」とか……これらはいったい何を言っているんだろう。意味としては、代わりがないという意味ではないかと思うんです。でもたいていのものは代わりがないですよね。いまこの一瞬もそうですし、電車で通勤している時間だって、なんだって二度と同じものはない、代わりはないですよ。だから、対象に張り付いている特徴ではなくて、関係のなかの言葉なのだろうなということは思うのですが……ではそれはどういう関係なのだろうと。あるいは、かけがえのない地球とか、かけがえのない命といった形で、一般論としてそれを使うときもありますよね。岩瀬さんにとっては、かけがえがないというのはどういうことなのでしょう?

 

 

岩瀬:

うーん……確かにそう言われると難しいですね……ただ、関係性に関しての言葉なんだろうなっていうのは、自分も思います。ひとまず。あとは「私にとって」というのが付く気はしますね。

 

 

井谷:

どうすると、「私にとって」かけがえのないものとなるのでしょうか。

 

 

岩瀬:

あわ居の話とは若干ずれますけど、自分の場合で言うと、自分の中に何かが刻まれてしまったり、それとの関係の中で自分が作り替えられてしまった、象られてしまった、なにかを被ってしまったというような……物で言えば、それを使うことで自分の身体に何か変容が起きるっていうことがあるでしょうし、それを見て何かを不意に想い出すこともあるでしょうし。人で言えば、試練を与えてくれた先生とか友人とか。恍惚感をもたらしてくれた作品とか、あるいはそういう体験をした場所であるとか……なんというのか、私というものを語る時に、それをなしにしては語れない、あるいはそれなしには今の自分がいないと思わされるというような、人や物、場所などに対して、「かけがえのない」という語を使っているような気もしますね。自分の場合は。

 

 

井谷:

うんうんうん。

 

 

岩瀬:

だから、相互侵犯的なイメージもありますね。

 

 

井谷:

私の存在と絡み合っていて、それを抜きにしては私とは言えないっていうような。

 

 

岩瀬:

それが継続的な関係の場合もあれば、そうではない場合もあるとは思いますけれど。

 

 

井谷:

子どもの命のかけがえのなさとか、自分の子どもはかけがえのない存在であるとか……そうしたことを言うときに、確かにいま岩瀬さんがおっしゃったように、自分に大きな変容をもたらした存在っていう意味合いもあるのかもしれない。

 

 

岩瀬:

今少し思い出したことがあって、あわ居は三年ほどかけていろんな方の力を借りながら、自力で改修をしたんです。自分は改修を始める時点で、ビスと釘の違いもわからなかった。でも、DIYは流行っていますし、自分もできるかなと甘い考えで始めたものの、やっぱり難しかったと(笑)。それで、やめようかなぁ、無理かなぁといろいろ思いながらも、だんだんと作業が進んでいく過程で、建物に愛着を感じたタイミングがあったんです。ではこれはいったい何なのだろうと……建物に手をいれて行くなかでは、自分の身体や知覚は明らかに変容をしましたし、精神的な面、考え方の面でもアップデートされたところがありました。つまりその建物との関わりのなかで自分が作り替えられたところがあったんです。ですのでその愛着というのは、おそらく客体としての建物に感じているわけではなく、その建物と自分との間に感じ取れているものなんだろうなと、そう自分なりに整理をしたんです。

 

 

 

井谷:

いまのお話を含めて、あわ居が岩瀬さんたちにとってかけがえのない場所なんだなということは、お話を聞いていてよくわかります。ちょっと考えてみたいのは、じゃあ例えばあわ居のすべての特徴を完全にコピーして、いまの建物と、そっくり入れ替えたら……。

 

 

 

岩瀬:

そこではかけがえのなさは感じないのではないでしょうか。やはり時間や記憶といったものの厚みというのか、堆積がないので。

 

 

井谷:

一緒に過ごした、あるいは共にした時間が大事だと。

 

 

岩瀬:

かもしれないですね……いや、でもどうでしょうね……。

 

 

井谷:

いくつもの彫刻をつくってきた彫刻家がいたとして、その人が使ってきた彫刻刀と、まったく同じようにすり減り、同じように汚れ、同じようにささくれ立った持ち手の刃を与えたとして、それはやはり違いますかね。

 

 

岩瀬:

うーん……たしかにこれは考えれば考えるほど複雑な問題ですね……たとえば家族写真というもので考えた時に、それが三十年前にプリントしたオリジナルのものなのか、それとも同じ写真を焼き直したものなのかによって、たしかにそこには差異がありますが、焼き直しの写真から喚起される固有の記憶というものもあるように思いますし……かけがえのなさをどう定義するかにもよりますが……とりあえずここでは保留とさせてください。

 

 

 

●部分と全体

 

 

井谷:

さきほどまでの(あわ居の改修に関する)お話をお聞きしながら、特徴というのはぜんぶ代替可能なんだなぁって思っていました。

 

 

岩瀬:

なるほど。

 

 

井谷:

顔がかわいいとか、優しいとか、料理が得意とか。ペンキ塗りがうまいとかね。こうやって特徴を挙げていくと、ぜんぶ代替可能になる。道具についても、自分がこだわっている細かな特徴を挙げれば、じゃあそれを作りますよという話になる。あわ居で言えば、部屋の間取りはこうで、ここに窓があって、こういう料理が食べられて……みたいに、特徴を挙げていけばいくほど、代替可能になっていく。それがすごく面白いなぁと。つまり、そういう特徴をもって、それらをかけがえがないとするわけではないということですよね。むしろ、特徴を挙げていけばいくほど、「じゃあそれ東京でも作りましょう」というふうになる。同じコンセプト、同じ特徴でとなったら、「じゃあ東京でも」となりえる。ときどきありますよね、それで失敗するという(笑)。

 

 

岩瀬:

(笑)。このあたりのお話は、いわゆるブリコラージュの話に接続してくるような気もします。人間が目にできるのは、あわ居で言えば、ここに窓があり、石徹白という土地に建物があり、壁は土と漆喰で、という個々の要素ですけれど、それはあくまで表に出ている部分にすぎません。そこでもう一個レイヤーを下げて見ると、実はそれらの要素間には、私たちなりの線というのか、有機的連関がおそらくあります。つまり何が言いたいのかと言うと、最終的に目にみえるところで、いろんな要素が表に出ているとしても、やはり全体としては、要素には還元できないものがそこに現われているのではないかと思うんです。

 

 

井谷:

すごく大事なお話だと思います。ぜんぶ目に見えるかたちで説明することはできない……特徴をピックアップすればするほど、あわ居のことを詳細に知れるような、そういう錯覚がありますよね。なんでもそうですが……例えば「山田太郎さん」という人のことについても、特徴を知れば、「わかった」というふうになるという考え方がある。でもいまのあわ居のお話だと、そうなっていないということですよね。そういう仕方ではわからない。逆に特徴をピックアップすればするほど歪んでしまうというか。かけがえのなさというのは、そういうことなのではないのかなと。

 

 

 

●隔たりと重なり

 

 

岩瀬:

今、ふっと思い出したことで、個人的に、あわ居のインタビュー集では、体験者それぞれの「その人性」みたいなものが出ているように感じているんです。それは言い換えれば、かけがえのなさです。その時に、じゃああのテキストの中に、体験者の方それぞれの、個人としての特徴が載っているか、そういうものが羅列されているかと言うと、そういうのはほとんどないんです。

 

 

井谷:

そうですね、載っていないです。

 

 

岩瀬:

でも一方であのテキストには、その人の声とか顔とか、そういうものが映っているのではないかと、個人的にはそう思っています。しかもそれがあわ居を媒介にして出ているというところに、面白さがあるなぁとも思っています。もっと言うと、あのテキストは体験者の語り、体験者の声ですけれど、でもおそらく「あわ居の声」でもあるんです。その二重性というのか……体験者があわ居のことを語っているのに、そこにその人の「その人性」が出ていて、一方で、あわ居もまたそこで象られている。

 

 

井谷:

いやー、面白いなぁ……極端に言うと、ある芸能人の方があわ居に来たとすると、やはりその芸能人があわ居のことを語ることになるというか、やはりその芸能人が喋っているなってなってしまう(笑)。でも、いまのお話からすると、そうではないということですよね。その人の普段の生活とか、人となりとか、出自とかが詳しく自己紹介されているわけではないからこそ、体験者のインタビューを通して、あわ居の声が聴こえてくると。

 

 

岩瀬:

しかもそれがずれるんですよね、みんな。

 

 

井谷:

なるほど。

 

 

岩瀬:

そのずれにこそ、人それぞれの世界が映っているというような、そういう感覚が自分にはあります。だからある種、あわ居は共有地というか、共通世界というか、隔たりつつ、でもだから故に時に重なり合うという、そういう性質をもった場所なのかなという気もしているんです。例えば教育って、容易に権力と結びついてしまう部分があると思いますし、世界を無視して、「これが良いことだ」っていうのを上から渡すことも簡単にできてしまうと思います。

 

でもほんらいの教育環境においては、「私にはこう見える」「でもあなたにはこう映っている」というような、解釈の多様性を担保するための余白が必要なのではないか。そのうえで、それぞれの世界は異なっているけれど、そこに分かち合えるものがあるよねっていう、そうした共同性をつくることが、教育環境としては理想なんだろうなという気がしています。逆に言うと、現代はそういう余白が少ないですよね。すぐに言語に置き換えられてしまう記号性を、みんな好むところがある。あらかじめわかっておきたい。あるいはみんなと同じものを持っておきたい。でもかけがえのなさというところで言えば、無分節的なところで世界と対峙するとか、非言語のところで何かを感じるとか……そういうところにこそ、それへ至る通路があるのではないかと思います。

 

 

 

●わからなさという余白

 

 

井谷:

その意味ではかけがえのなさというのは、「わからないもの」なのかもしれないですね。さきほどの話で言えば、わかってしまえば、同じものを再現できてしまうわけだから……さきほど「何も共有していない者たちの共同体」の話がありましたけど、理解や解釈を共有しえないところに、かけがえのなさが立ち現れてくるのだとすると。菊地さんの体験されたあわ居と、高橋さんの体験されたあわ居というのは、もちろんそこには共約できる部分、例えば「こういう部屋でした」っていうような部分はありつつ、でもそれぞれに共約できないものがあると思います。そしてその共約できないものこそが、かけがえのなさとして残るのではないかと。

 

 

岩瀬:

となると、例えば文字だけで構成されている書籍で言えば、文字でない白の部分、つまりは行間にこそ、その人にとってのかけがえのなさがあるということでしょうか。

 

 

井谷:

なるほど、さっき岩瀬さんが有機的連関っておっしゃっていたけれど、そういうことか……すこし思い付きというか、とりとめがなくなってしまいますが、さきほどプロセスへの信頼があるというお話をされましたよね。チェックインして、お風呂に入って、食事をして……という。それらはタイムテーブルとして目に見えていて、説明可能なものですよね。けれども、岩瀬さんは、どうしたら良いのかわからないまま、お迎えをすると。手順やフォーマットはありつつも、どうしたら良いのかわからない余白がたくさんあると。そこはつまり、特徴や言語、情報に還元できないものですよね。ここにかけがえのなさを考えるヒントがあるのではないか。この余白にこそゲストの方にとってのあわ居/あはひ(間・機縁)があるのではないかと。

 

 

岩瀬:

要素の話でいえば、あわ居の館内には書籍が置いてあったり、窓から植物が見えたり、川の音が聴こえたり、いろいろあるわけですけど、その人が反応するところ、フォーカスする部分はそれぞれ違いますし、かつそこに何を見るのかも全然違います。だから、先ほどのお話ではないですが、共通する部分はありつつも、そこに見ているものも、またズレているんですよね。そこが面白い。そこにこそ何かがある気がします。広告なんてまさにそうですけど、今はやっぱり「これはこうです」っていう揺るぎない解釈をあらかじめ言語的に与えられて、それをそのままキャッチできればコミュニケーションが成立しているというような形態が多いと思うんです。リンギスの言う「合理的共同体」は、おそらくそういうところで営まれている共同体ですよね。

 

 

 

●原初の場所へ

 

 

井谷:

菊地さんのインタビューのなかに、あわ居から帰ってから日常に対して問いが生まれた、という話が書かれていました。おそらく私たちは、普段知っているつもりの世界の中では問われないんですよね。世界から。「さぁ、おまえはどうする?」と、あまり問われていない。「雨降ったら傘さすんでしょ」とか、「喉が渇いたらコーヒー飲むんでしょ」とか、だいたい知っているつもりの行動をしている。だけど、わからなさに一緒にお付き合いしてくれる岩瀬さんたちみたいな人がいると、例えば雨が降ってきたとか、蟻が歩いていることとか、そういうふとしたことに対して、「あなたはどうレスポンスするんですか?」というふうに立ち戻れるというのか。わからないところにいちいち立ち返れるのかもしれない。

 

 

岩瀬:

なるほど、面白いですね。

 

 

井谷:

「いま、雨降っていますけど、あなたはこれにどう響き合いますか?」というのを、世界から問われる。かけがえのなさというのか、固有性というのか、その人の応え方がそこで問われる。あわ居はそういう場所なのかもしれないですね。

 

 

岩瀬:

さきほど、日常ではあまり問われないというようなお言葉がありましたけれど、今の社会には「問わなくて良いよ」とか、むしろ「問わないでよ」みたいな力もあったりしますよね。

 

 

井谷:

そうだと思います。

 

 

岩瀬:

だから、そもそも「そういうことをして良いの?」「そこを問いかけても良いの?」という部分が、現代の社会、あるいはそこに生きる人のなかで、すごく強くなっているような気がしています……でもあえてそこを踏み越えて、どう応対していいのか分からない事態に自分を晒す時間というのは、逆に言えば、自分から脱出できる時間にもなりえますよね。もしかしたら、そこには恐さがあるかもしれません……だからこそ、本当の遊び、つまり跳躍としての遊びは、誰かが見ていないとやれないんだという話もあったりしますよね。それに近いのかなという気もしました。

 

 

井谷:

なるほど。面白い。

 

 

岩瀬:

つまり、一人では少し不安になってしまうと。例えば小さな子どもだったら、同伴者としては親が多いのでしょうけど、遊びのなかで自分が賭けに挑んでいく状況、いわばどうなるかわからない現場に、一緒に大人が居てくれているからこそ、子どもは遊ぶことができるわけです。遊びと言うのは、いわば世界の受け取り直しの行為ですよね。そして受け取り直しの営為こそが、本来の創造行為だと思うんです。アーティストはその為に作品を作るのでしょうし、教育学者の矢野智司さんの「生成としての教育(*8)」というのは、まさにそのあたりの議論ですよね。そして世界を受け取り直す時には、言語がない状態というのがあるのではないかと自分は思っています。それを僕は「詩」と言っているわけですが、例えばインファンティア(言葉の手前にあるもの)という言葉もあったりしますよね。あわ居においては、そういう言語を超えた状態が、対話的なところで生成される場合もあるでしょうし、一方で雨や植物などとの応答において、つまりは非言語的なところで起きることもある。

 

 

井谷:

普段、自動的にやっていることをいったん中断したり保留したりして、「じゃあ私はどうするんだ」「私はどうしたら良いかわからないぞ」というところに立つことができる……そういうふうに迎えてくれる場所って、それこそないですよね。

 

 

岩瀬:

なるほど、そうなんですか……。

 

 

井谷:

何者でもないぞっていう。それはなかなかないですよ。

 

 

 

●二重性あるいは共同性

 

 

岩瀬:

最後になりますが、自分は今回の対談の冒頭で、役割とか機能を剥がしたところで人と出会いたい、それであわ居をやっているというような話をしたわけですが、でも本当にそこに役割がないのかと言えば、それはまたあやしいのかなという気もしています。実際あわ居では金銭の授受が発生していますし、見方によってはあわ居での関係性は、ファシリテーターとクライアントという構図で捉えられるようにも思っています。オープンダイアローグやイタリアの精神保健などはまさにそうだと思いますけど、役割関係がありつつも、そこに「わからなさ」や不確実性を抱えた人対人のレベルでの応対が成立しているケースもありますよね。

 

これに関連するところで言えば、人類学者の小田亮さんは、レヴィ=ストロースの言う真正な社会にも役割関係はあって、でもそこには同時に役割関係に還元できない過剰性があるのだということを論じています。つまり役割関係があるのに、そこに代替不可能性があるという、その二重性を指摘している(*9)。このあたりは、あわ居での対人関係に限らず、今後の社会全体の中での対人関係を考えていくうえでも、かなり大事な論点だと思っています。どうやったらその二重性を確保できるのかというところですね。

 

こうした共同性に関する問題については、徳山村の写真を撮った増山たづ子さんの写真などを見ていても、個人的にいつも深く考えさせられますね。「顔」のある集落、「顔」のある共同体といったら良いのでしょうか……さらにここを掘っていくと、共同体においての秩序と無秩序、構造と反構造を行き来することの重要性についての話などにもおそらく繋がっていきますよね。こうしたことについても今後じっくり考えていきたいと個人的に思っています。最後ぶわっと話が膨らんでしまいましたが(笑)、今日は長い時間本当にありがとうございました。

 

 

井谷:

ありがとうございました。

 

 

 

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(*1)あわ居のホームページ上に掲載の「体験者インタビュー集」は、書籍『あわ居-<異>と出遭う場所』に全文収録予定。

(*2)詳細はこちらを参照

(*3)アルフォンソ・リンギス(2006)『何も共有していない者たちの共同体』(野谷啓二訳)、洛北出版

(*4) 例えば小玉重夫監修(2023)『対話的教育論の探究』、東京大学出版会など

(*5)例えばティム・インゴルド(2021)『生きていること』(柴田崇他訳)、左右社など

(*6)今回の掲載にあたってはもちろんご本人にご了承を頂いている。井谷さんが抱くこうした「ためらい」については、岩瀬も同様のものを感じているが、あわ居の実践についての議論を深めていくこと、またそこから知を伸ばしていくにあたってはやむを得ない部分があるようにも感じている。こうした葛藤や「ためらい」があったうえで、今回の掲載に至ったことをここに記しておく。

(*7) 詳細はこちらを参照

(*8) 矢野智司(2008)『贈与と交換の教育学』、東京大学出版会

(*9)例えば小田亮編(2010)『グローカリゼーションと共同性』pp.247-276、成城大学民俗学研究所グローカル研究センターなど

 

対談実施日:2024年2月19日

対談場所:オンライン(ZOOM)