対談タイトル 

「イメージがひらくリアリティ」

 

イメージ、聖地らしさ、異日常、歴史、そして穴―。場所をとりまく多様なテーマを行き来しながら、今日における場所との接触のありようや、虚構が持つ可能性について鋭く迫るダイアローグ。

目次

 

・場所の力

・装置と人為

・場所とイメージ

・聖地らしさとは何か

・日常と非日常、あるいは異日常

・場所と歴史


 対談者:前林明次さん

(アーティスト)

 

1965年静岡市出身。身体と環境のインターフェイスとして「音」や「聴覚」をとらえ、そこに技術的に介入することで知覚のあり方を問いなおす作品を発表してきた。近年は、場所イメージの「合成」をテーマに、フィールドレコーディングによる音響と様々なメディアを組み合わせるサウンドインスタレーションを制作している。主な作品に《Sonic Interface》(1999-)、《[I/O] distant place》(2001)、《ものと音、空間と身体のための4つの作品》(2005) 、《Okinawa Noise Map》、《場所をつくる旅》(2017)などがある。情報科学芸術大学院大学 [IAMAS] 教授。


 

●場所の力

 

 

■岩瀬:

このたびは対談の実施にあたり、わざわざ石徹白までお越しいただきありがとうございました。今回は石徹白のフィールド録音もしながら、あわ居別棟に二泊三日滞在していただいたわけですが、そのなかでの体感であったり特徴的だったエピソードについて、まずは聞かせていただきながら、対談を始めていけたらなと思っています。

 

 

■前林: 

今回、あわ居のちょうど裏に位置する大師堂でフィールド録音をしたわけですが、お堂までのけっこう急な石の階段をのぼっているときに、自分が見ているものや周りの風景がすごく映像的に感じたということがありました。なぜそういうことが起きたのか明確な理由はわからないし、それは一瞬のことではあったのだけれど、そのことがまずはとても印象的でした。自分が確かにそれを体験をしているんだけれど、どこかメディアを通して風景を見ているという感じというのか。普段住んでいる日常的な場所から、石徹白というスケールの大きな場所に車で移動をし、石徹白までの運転の疲れなんかもあるなかで……だから少なくともそれは、日常から離れた体験といって良いのかな。

 

もちろん、いま話した体験や違和感を少し大げさに捉えてしまっているっていう部分はあるかもしれない。もしかしたらただ疲れていただけとか、そういうことかもしれないし(笑)。あとは、石徹白は空気が違うなというのは確実にありますよね。新鮮な空気を吸っている実感があるというか……空気が締まっている。

 

石徹白って、歴史的にも、いわゆる聖地のような位置づけになっているわけですよね。白山中居神社にしても、なにかしらの場所の特性があるというか、昔の人がそこに何か身体的に感じ取ったものがあったからこそ、その場所が選ばれたっていうところがあると思う。つまり、身体感覚と場所との関係性のなかで生まれているんだろうなと。さっき言ったような感覚は、そういうことと関連しているのかも知れませんね。

 

 

■岩瀬:

なるほど。石徹白という場所の特性について少し整理してみると、まずは歴史的に白山信仰の重要な拠点だったというのがあると思います。宗教的な文脈のなかでたくさんの人の往来があり、聖地としての機能を果たしてきたというのが、重要なポイントとしてまずはひとつある。一方で、「場所の力」というところにぐっとフォーカスしていくと、それは白山を信仰しているかどうかという点に関わらず、現代の人でも「ちょっと他の場所とは違うぞ」っていうような空気感とか、清澄な雰囲気が感じ取れる場所なのではないかなということを個人的にも感じています。そこで感じ取れるものは白山信仰という文脈だけでは説明しきれない、場所それ自体が持つなにかしらの力なのだと思います。

 

そしてまさにその場所で、自分たちはあわ居を営んでいるわけですが、そのなかでの大きな関心事として、現代においての信仰って何だろうなというものがあります。信仰と言いましたが、これはなにも宗教の話をしようとしているわけではなく、広い意味で、この現代のなかで何を信じていくのか、何を生きていくうえでのよりどころとしていくのか、というところに関わる話です。人間という生物が生きていくうえで、超越的なものとの関わりや至高的な体験を希求する部分が、誰しも少なからずあるのではないかなという気がしていますし、むしろ根源的な生を展開していくうえで、そういうものは欠かせないのではないかということを思います。

 

おそらく近代以前は制度宗教がうまく機能することで、そうした人間の欲求にたいしての受け皿が、ある程度社会的に担保されていた部分があると思うのですが、近代になって、制度宗教が死んだわけではないにしても、どんどんと減衰していった。日本の場合で言えば、国家神道や新興宗教などの問題がさらに複雑に絡まり合ったことで、宗教に対しての拒否感はかなり根強いものになっているのではないかという気がしています。そのなかで、宗教ではないところで、いかに超越的なものとの関わりや、至高的な体験を取り戻していけるのかっていうのは、現代においてすごく大事なテーマである気がするんです。

 

そして、自分たちがあわ居という場所を営んでいるなかで思っているのは、それが仮に白山信仰という言葉には結びつかないものだとしても、石徹白やあわ居での時間を通して、その人が確かに「世界」に触れるような体験を創出できれば、それは十分なその人自身のよりどころとして、身体や記憶のなかに留まり続けるのではないかということです。この石徹白という場所に立って、それは例えば、風を感じることでも良いですし、水にさわることでも良いですけど、ともかく何かに「じかに触る」ということ。「じかに触る」ことができたときに、そこに「世界」が見えたり、生きていくうえでのよりどころとなるような「確かさ」が実感できるのではないかと、自分としてはそう考えています。

 

逆に言えば、現代は「じかに触る」ことがとても難しくなっている時代でもあると思うんです。感覚をひらいてしまうとむしろ生きづらいから、あえてそれを摩耗させて、閉じる。その方が、今の社会で生存するうえでは無難であるというような、そういう側面がある気がしています。世界にはほんらい無数の「穴」があるわけですが、現代の日常生活においてはその穴はなかなか見つけにくい。一方で、身体をくわっと開いて、そういうところに触れにいって良いんだっていうような安心感や信頼感を感じさせる何かが、まずはこの石徹白という土地それ自体に備わっているのではないかという気がしています。だからこそ、その土地の力を借りながら、ここに来た人が、自ら何かに「じかに触る」ような出来事が生まれればよいなと、そう思っているところがあります。

 

 

 

●装置と人為

 

 

■前林:

今のお話はまさにそうだろうなと思う一方で、最近では「ポケモン GO」のようなものもあって面白いなと思うところがありますね。実際に自分が目撃した体験から言えば、何年か前に、勤務している大学の周辺で、家族とか若者のグループがスマホを見ながら、何かに引きつけられるようにして、何かを探すようにして歩いていたんですね。その様子を遠目で見ながら、これは一体何が起こっていて、何を探しているんだろうと不思議に思いました。そしてその後、彼らは「ポケモン GO」をやっているんだということを知りました。僕としては、こういう現象ってすごく面白いなぁと思います。

 

つまり白山中居神社や石徹白の持つ場所の力がある一方で、そこでは「ポケモン GO」というゲームによって仕組まれた「場所の力」が生まれている。それはGPSなどのメディアテクノロジーの発展によって可能になっていることですよね。もしかしたら場所なんて見ていないのかもしれないけれど、ゲームをする人たちは実際にその場所に行かなければいけないし、そこで何かを探さなければならない。そういう場所との関係性や、その場所でしか起こらない臨場感のようなものが、仕組まれたものではあれ、ぎりぎりのところでそこに発生している。だから場所を探る感覚や、この場所に何かがあるだろうっていう気配のようなものを感じ取る力というのは、弱まってきているとは言え、まだ残っていると僕は思います。

 

むしろ、子どもたちはそういうものを生き生きとした目で探している。その場所に埋め込まれている得体のしれない何か、現実的には見えないけれどたしかにある気配のようなものを探ろうとする力はまだあるとも言える。先ほど、「穴」っていう言葉がありましたけど、そういう穴がメディアテクノロジーによってひらくかもしれないということは可能性として感じます。

 

 

 

■岩瀬:

なるほど。のっぺりとした空間だったはずなのに、そこにひとつ何かを介在させることで、探索する余地が生まれたり、そこに気配を感じ取ろうとする構えがつくられるというような……なんらかプラスの働きが生まれる可能性があるというお話ですよね。

 

 

■前林:

そうですね。だから石徹白のような、いわゆる聖地の持っている場所の力というのは、とても強力なものだとは思うんだけれど、一方でそういうものをわれわれが身体的に感じ取る力、気配を感じ取る力もまたとても重要ですよね。その意味で、「ポケモン GO」というのはぎりぎりではあるんだけれど、それがあることで、人はそうした身体的に気配を感じ取る力を発揮している、と捉えることができると思います。

 

 

■岩瀬:

なるほど。そう考えてみると、自分たちがこの石徹白の土地の上に、さらにあわ居という具体的な建物を設けているという状況というのは、石徹白という土地が持つ場所の力にたいして、さらに人為的な介入を施していると捉えられるのかもしれないなと、今お話を伺いながら思いました。その意味であわ居という場所もまた、石徹白という場所をより深く体験するために仕組まれた、人為的な装置であるとも捉えられるなぁと。

 

 

■前林:

石徹白がもつ場所の力を感じるための入口というか、導入部というか、そのような感じですかね?

 

 

■岩瀬:

そうですね。おそらくこの石徹白という場所にはいろんな潜在性があるとは思うのですが、自分たちとしては、言葉にならない体験というか、「あれは一体何だったんだろう」っていうような不可解さを含むような出来事を作れたらなというところで、あわ居を営んでいます。そういう出来事のことを僕は「詩」と言うわけですけど、それを作るってなった時に、現代人のベーシックな身体感覚があるなかで、その身体感覚にたいして単純に石徹白という土地が発する場所の力が掛け合わさるだけでは、「詩」の体験にまで達するのがなかなか難しいと、自分たちは思っているのかもしれないですね。もちろんそこに例外はありますけど、仮にそういうことがあったとしても精度というか、偶発する可能性はきわめて低くなってしまう。

 

つまり、「詩」が生まれる潜在性というのは、この石徹白という場所自体に確かにある。「穴」はたくさんある。でも現代人の身体感覚そのままでは、石徹白という場所ですら、そういうものを探索することがなかなかに難しい状況がある。そこにあわ居という人工的な装置が加わることで、何かしら身体感覚に良い意味でのズレが生まれて、石徹白の土地が持つ潜勢力が発現し、言葉にならない体験が偶発する精度や確率が上がるっていうような、そういうことを自分たちはあわ居で目指しているのかもしれないですね。

 

自分たちとしては、言葉にならない体験が起きて欲しいとは思いつつも、それがどうやったら起きるのかはわからないし、そこは設計しきれない気がしています。でもそういうことが起きやすい条件はおそらく整えている。宿泊業ではありながら、いわゆる宿業の形態をとらないこと。ホームページ上でそのことを示し、来訪の際の導線を絞ること。それにより、動機付けや文脈をある程度のところでならすこと。ご本人が抱える課題意識や現状について、予約時のフォームに可能な限り記していただくこと……こういった細かな人為的な操作によっても、おそらく「詩」が偶発する可能性は高められているのだと思います。その意味でも、自分たちは人為的な介入によって、普段とは違う身体的な構えを醸成したり、「詩」が偶発しやすい環境をつくっているのかも知れません。自分たちがしているのはそういう意味での場づくりなのかもしれないです。

 

 

 

●場所とイメージ

 

 

■前林:

なるほど。そういう意味で、「ポケモン GO」の持つ可能性について考えてみると、巧妙に仕組まれたゲームではありながら、それを過小評価できないっていうのが現代の状況なんだと思うんですよね。聖地になんらかの力がある一方で、なんでもない場所にも力のようなものをもたせることが可能というように。

場所について考えるときによくテーマになるのは、「場所」と「空間」の違いです。「場所」というのはなんらかの力をもっていて、特異点として存在し続けるところと言える。それに対し「空間」は、常に意味付けを待っているようなフラットな領域と捉えることができる。裏返せば自由に意味づけられ、制度化され得る領域、と言えるかも知れません。面白いのは、現代においては歴史や伝統を背負った場所よりも急ごしらえで意味づけされた空間がまず先に来るというところですね。

 

例えば、映画『君の名は。』は、日本の架空の町に隕石のようなものが落ちて……というようなストーリーですよね。ここでは架空のような実在のような場所に対して、映画によって意味が付与されるということが起きています。つまり映画という虚構によって、その場所に対しての意味づけがなされ、観る者の想像力が刺激され、今度はそこを訪れるようになる。こういうあり方はすごく面白いと思うんです。つまりそれは後付けの聖地化という感じで、映画なりメディアなりで、ある場所が虚構のなかで聖地化され、それを見た人が実際にその場所を訪れる。つまり虚構が媒介となって、現実の場へと誘導される。そういう枠組みで見ると……。

 

 

■岩瀬:

いや、まさにあわ居の話ですよね(笑)。

 

 

■前林:

かも知れませんね(笑)。

 

 

■岩瀬:

 

例えばあわ居のホームページ上で公開してきた「体験者インタビュー(*1)」について、ここであらためて考えてみると、あのインタビューはあわ居という場所についての語りであり、その意味ではひとつの虚構であると捉えることができると思います。そして事前にその虚構に触れ、実際に現地に来てみて、実際の場にその虚構を重ねることで、現地での体験がぐっと深まるとか、場所との接触の可能性が高まるというようなことが、現実的にありえるのかなと……虚構があることで、気配を感じる力とか外部を予感する力がぐんと高まる可能性がある。もっと言えばその虚構自体が、あわ居の求心力になっていくということも考えられますね。じっさい、池田知加さんは、「ツーリズム経験についての『語り』は『場所』の意味や魅力を形成する一つの重要な構成要素とみなすことができる」としたうえで、「ツーリストの語りによって形成されたその『場所』の特別な意味が人を旅へと誘い込むことになるのではないだろうか。」と記しています(*2)。

 

そして書籍『あわ居-<異>と出遭う場所-』の刊行によって起こそうとしているのは、まさにその発展形なのかも知れません。書籍によってあわ居に新たな意味や「場所イメージ(*3)」のようなものが与えられ、場所の求心力が高まったり、現地での体験の質を高めていくことにつながっていくというような……そうしたサイクルをまわすことに書籍というメディアが有効に機能するのではないかと思います。この「<異>と出遭う場所」という言葉は、書籍を制作するなかでふと思い付いたあわ居を言い表す言葉で、わりと気に入っているのですが、一方でこれはあわ居という場所へのイメージを規定してしまう、かなり強い力を持った言葉だと思っています。けれども主宰者があわ居という場所に対して、こういう強い言葉をあらかじめ貼り付けてしまうことで生じるプラスの効果が、やはりあるのかもしれないなぁということを、今お話を伺いながらあらためて考えていました。

 

今お話ししてきたことは、ある場所で兆しを探索する時の独特の集中力というものに大きく関連するものだと思いますが、ここで思い出されるのが自分の過去の旅のことです。十年ほど前に、僕は知床の獣道をガイドと二人で往復で数時間歩いたことがあって、その終着点にあった槲の木に、それこそ言葉にならない感動を覚えたということがありました。あの時はちょうど秋で、鹿のいさかいに何回か遭遇しましたし、あちこちに熊穴があったりしました。だから、歩いているなかでちょっとでも変わった音がすると、ガイドはすぐに立ち止まり、周囲の様子を確認するということを繰り返していました。プロがそういうことをしているのを見ると、やっぱり僕自身もちょっと怖くなるというか、周囲に対しての緊張感とか集中力が生まれますよね。それによって、普段は使っていない能力が発動するというか、感覚が鋭敏になっていた部分があったんだろうなと、今になってそう思うんです。つまり日常の知覚の様式を採用していてはダメだっていう危機感がたぶんあった。だからこそ、いつもの自分のあり様から離れた、宙ぶらりんな状態で居られていたんだと思います。つまり、いつもの自分を止めながら、「穴」を探索する構えになっていた。そうしたなかで一本の槲を見た時に、それが鮮烈な印象として自分の中に入ってきた部分があったんだろうなと思うんです。

 

この旅のエピソードにおいての緊張感は、虚構とはまた違うところで生み出されたわけですけど、同じような緊張感や集中力、あるいは弛緩や脱力が、虚構によって生じる可能性もまたあるのかなと思います。日常っていちいち反応しないこととか、流してしまうことで円滑にまわっていく部分があると思うので、そのあり様を中断させるために虚構が作用するというか。虚構によって、いつもの自分ではない自分でいることができるようになる。

 

加えて、ここで共有しておきたいエピソードとして、あわ居のオープン当初のことがあります。あわ居は最初、民宿として営んでいました。もともと、わかりきった何かを渡すような場所にはしたくないというところがあったので、とりあえず民宿のふりをすることで、間口を広げ、とにかく色んな方にあわ居に来てもらえさえすれば、何かが起きる、何かが起こせるのだと、そう信じていたわけです。でも、やっぱりそうはならなかった。というのも、布団と食事がセットになっていれば、ほぼ全員がそこを「宿」だと認識します。そしてその認知は一泊とか二泊の時間のなかでは、よっぽどのことがなければ覆りません。

 

そうなると、機能としての「宿」以上の何かを、その場所で探そうとはなかなかしません。つまり、「自由にあわ居を体験してください」とこちらがやっていると、かえって「宿」として処理され、「宿」として固定化されてしまうということが起きたんです。現代に生きる人は、そういうふうに記号的に処理することにおそらく慣れ切っています。だからこそ、そのことを前提にしたうえで「宿」として処理されないための、何かしらの工夫や制限、あるいは介入をすることが必要になるんだろうなとそこで思いました。あわ居がどんな場所なのかをある程度こちらが定義し、限定してしまうことでこそ、かえって場の自由度や密度が守られるんだなと、そう気付かされたんです。

 

 

■前林:

なるほど。

 

 

 

●聖地らしさとは何か

 

 

■岩瀬:

 

そして今日の聖地というところに話を移すと、それは結局、個人がその場所に何を見いだしているか、その人にとってその場所がどのように大事なのかっていう部分と大きく関連するものなのかなと思います。フランスにテゼ共同体という修道院があるのですが、そこの修道院にはツーリスト用の泊まれるスペースがあって、今日の聖地とツーリズムの関連を考えるうえで非常に面白い場所だなぁと思っています。宗教学者の岡本亮輔さんのテゼについて考察(*4)を読みながら僕が感じたところでいえば、それぞれのツーリストがテゼに何を見出すのか、そこに何を見るのかという部分こそが重要で、それがあってこそテゼは誰かにとっての聖地になり得るのだろうなということを思いました。つまり自分でその場所を聖地化しないと、テゼは聖地には決してならないのだと思います。そして、あわ居を作っていくプロセスにおいても、そういうテゼのあり様に多分に影響を受けてきたところがあるんです。対談の冒頭でも、石徹白にはそもそも場所の力として、ある種の聖地性があるという話があったんですけど、でも自分たちがあわ居を媒介にして作りたい聖地らしさは、またそれとも違っている……。

 

自分たちのつくりたい聖地らしさについて説明するうえで、ここでは次女が生まれたときのエピソードについてもお話ししたいと思います。次女が生まれたのは今から六年ほど前ですが、その出産に際して、妻は千葉の実家近くの病院で出産を予定していたので、出産予定日の一ヶ月くらい前から長女と一緒に実家に帰省をしていました。それで、出産予定日の数日前の早朝に、「もうすぐ生まれる」と妻から僕に電話がかかってきた。僕は当時、石徹白と大垣の二拠点居住をしていたのですが、その日は運良く大垣にいたので、すぐにとび起きて、始発の電車に乗って名古屋まで行き、そこから新幹線に乗りました。それで新幹線に乗ってすぐに「さっき生まれた」とメールがあった(笑)。しかも面会は午後の十五時くらいからしかできないと言われてしまう。だったら東京でちょっと時間を潰そうかなと思い、当時、僕が建築にはまっていたこともあり、東京の四谷にある聖イグナチオ教会に一人で行ったんです。実は僕はかつてその隣にある大学に四年間通っていたんですが、在学中は一度もそこを訪れたことがなかったんです。

 

それで聖イグナチオ教会に入ってみると、早朝だったこともあってか、教会に居る人はわずか数人程度で、すごく静かでした。それでしばらく座っていたらパイプオルガンが鳴り出した。今考えてみると、あの時の自分ってすごく曖昧な状態ですよね。次女が生まれたという事実は聞いたけれど、まだ実際には会えていなくて、情報のなかでは二人の子どもの父親ですけど、実際の感覚としては、まだそうではない。そういうどっちつかずの状態のなかで、教会に居て、館内を見渡し、音楽を聴いていたら自分にとっての重要な出来事が起きた。「これまでのことは忘れなさい」とか「これからがはじまりです」というような言葉が聞こえた気がしたんです。僕は基本的に無宗教で、キリスト教を信仰しているわけではないですけど、あの体験があったから、自分にとっては聖イグナチオ教会は聖地なんですよね。だから、あわ居で作りたい「聖地らしさ」は、自分が聖イグナチオ教会に対して抱いているそれに近いものなのだと思います。そしてその後、自分は何回かその教会を訪れましたが、文脈や状況が違う時にそこに行っても、同じようなことは全く起きませんでした。これも重要な部分だと思います。

 

 

 

■前林:

今、「聖地らしさ」っていう言葉がありましたけど、いわゆる「聖地」というのは、伝統とか宗教的なコンテクストががっちり固まっている感じがします。逆に「聖地らしさ」の「らしさ」っていうのは、さっきの気配を感じる力とか、外部を予感する力とすごく関連する気がします。つまり、こちらが持っている力をその場所に投影するということ。虚構やフィクションによって先取られた場所の感覚を、人は現実の場所に投影する。だからそれもある意味で人為的な操作ではあるんだけれど、そこに「らしさ」が発生する。そういう意味で「ポケモン GO」をやっているときの感覚も、その「らしさ」の可能性だと思うんですよね。なんでもない場所にポケモンが潜んでいるっていう設定があることで、そこが特別な場所になり、「らしさ」をまとうことになる。そしてこれは、近代以降の感覚じゃないのかなと思います。

 

このような問題について考える時に、ルイス・キャロルの『シルヴィーとブルーノ』という小説をいつも思い出すんです。その小説の中に描かれているイメージ的な遊びのなかで、縮尺1:1の原寸の地図をつくる、という話が出てきます。しかし1:1の地図になると地図自体が大きすぎて、日光を遮ってしまって作物が育たなくなる。これだとあまりに不便で具合が悪いから「この現実の場所そのものを地図として使おう」という話になります。この発想の転換って、ある意味すごくラディカルですよね。現実の場所と地図という虚構としての空間が重なってしまう、あるいは反転してしまう。こういうラディカルさは、きわめて近代的な発想だと思いますが、現在はそれが日常化しています。

そこで虚構とかフィクションの問題にもどると、僕がアート作品をつくるときのひとつのテーマが「イメージの合成」なんです。場所と空間、あるいはイメージを合成しながら更新していく。ある場所を訪れ、そこで何らかのインスピレーションを受け、時間をかけて接するなかで、その関わりを自分なりに深めていく可能性がそこにはある。場所からのインスピレーションを音というメディアを通して、変換し、イメージを深化させ、更新していく、あるいは場所のイメージを合成し続けていく。それはもう虚構とかフィクションとかいう枠組みを超えていくような運動でもあるわけです。そこから何が広がっていくのか、そこに賭けてみたいなというのはあります。

 

 

●日常と非日常、あるいは異日常

 

 

■前林:

あとは今回、あわ居別棟に二泊三日滞在させてもらって感じたのは、すごく細心の注意を払って設計された空間というか、過ごしやすいつくりになっているなということでした。やわらかい感覚がありました。それも石徹白という場所を感じるときのひとつの重要なファクターだと思います。

 

 

■岩瀬:

あわ居の空間やそのしつらえも、石徹白という場所を感じ取るうえでの、バイアスというか制限というか、何かしらのファクターになっているということですよね。良くも悪くも、間違いなくそこに影響を与えてしまっている。

 

 

■前林:

そうですね。ある意味とても現代的なんだと思う。僕がいろんなところにフィールドワークに行くときもそうだけど、宿泊施設とその場所の記憶ってすごく密接に関わっていて、泊まる場所がなんでも良いというわけではない。あわ居別棟は、とてもアットホームで機能面でも普段の生活と変わらないくらいでした。だからこそ、安らげるというところもありました。例えば珈琲を入れるとか、寝るとか……そうした行為が、日常の生活とあまり変わらずスムーズにできるから、だからこそ外の雰囲気とか、微細な変化を感じ取れるっていうことがありました。そこに対して岩瀬さんご夫婦が細心の注意を払っているんじゃないのかなと思いました。

 

 

■岩瀬:

なるほど、面白いですね。石徹白という場所に居ること自体は非日常なのに、でもそこでする行為自体はすごく日常的だっていう……あともう一つ思うのが、確かに珈琲を入れて、寝て、パンを食べて……っていうところは普段の生活と同じでも、日常だとそこに仕事だったり雑事があるわけですよね。そういう点で言うと、日常でしている仕事や雑事は限りなく少ないなかで、別棟で生活をするわけですよね。その差異も非常に重要な部分なのかなと思います。もちろん色んなケースがあって、別棟滞在時に多少は仕事や雑事を持ち込まないといけない場合もあるとは思いますが、ただこれまでの傾向としては、あえてパソコンやスマホを持ち込まない、仕事や雑事はしないという選択をされる方が多いですね。

 

日常と非日常という部分で言えば、これまでのツーリズムは日常に対しての非日常をいかに作るのか、という点に注力してきたと思います。でも日常がハレ化している現代において、これまで非日常な行為だとされてきたことをするだけで、本当にそれが言葉にならない体験を創出することになるのかと言えば、それは非常に疑問符がつきます。もはやハレとケを対比させていた時代とは前提が違うので、そのうえでどう<異>の体験を作れるのかという視点が大事になってくるのだろうと……最近自分が興味を持っている言葉で、「異日常」というものがあるのですが、自分の日常とは違う、異なる日常に身を置くことで、そこから何かが生じることはありえますよね。異日常は人類学的なフィールドワークなどとも関連の強い語句だと思いますが、ただフィールドワーカーの場合は異日常の生活自体にストレスがあって、そこから変容がもたらされる場合が多い気もします。その意味では、まるっと今のお話に接続できるものでもないとは思うのですが……。

 

 

■前林:

まぁでも確かに、なんらか関連する部分はあるのかも知れませんね。それにしても「異日常」というのはすごく興味深い言葉ですね。

 

 

■岩瀬:

それに関連するところで、あわ居で起きうること可能性のひとつというか、もしかしたらもうそれは起きていることかもしれないですけど、僕らが日常的に見ている世界とか、僕らのここでの日常的な知覚の様式を、来訪者がトレースするというようなことも起きうるのかなという気もしています。つまり僕らの日常が、来訪者にとっての異日常として作用するというか。

 

 

■前林:

そこに小さなズレというか、そういうものが生まれるっていうことですよね。それでやはり思い出すのが、最初に話した大師堂に続く石の階段をのぼっている時に感じた、あるフレームがあって映像的に辺りを眺めてるような感じがしたという、あの感覚のことなんですが……あのようなズレが起きるには、決してどこでもよいというわけではないと思うんです。

 

 

 

●場所と歴史

 

 

■前林:

これまでの話の流れのなかで面白いなと思うのが、やっぱり場所のイメージの問題です。場所のイメージについて考える時に、僕は虚構の力を借りて考えることが多いんですが、最近では『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』という映画が印象的でした。内容をざっと言うと、二人で生活をしている男女がいて、二人はたわいもないことで喧嘩をし、その後、男性は家の前で事故で亡くなるんです。それで男性は成仏できずに、お化けとしてそこに居続ける。もちろん女性には見えないわけですけど。

 

そのお化けはその場所で恋人が生活する様子を見ながら、だんだんとその場所の過去や未来に、タイムトリップし始める。過去や未来に旅をする中で、なんでもないと思われていたこの場所が、かけがえのない、唯一の場所に変容していく。そういうストーリーなんです。

 

こうした時間的な縦軸での場所の捉え方ってとても重要だと僕は思っているんですが、そういう意味でも、石徹白は縦軸が深い場所ですよね。それでもそのなかでいろいろと変わっていくものがあるわけで。そういう捉え方をした時に、つまり時間のスケールといった部分で、石徹白やあわ居の存在について何か思うことはありますか?

 

 

 

■岩瀬:

うーん……直接のお答えにはならないかもしれないですが、石徹白には縄文から人が住んでいたっていうことが言われているなかで、縄文人は場が良いところを選んで住んでいたというような話をどこかで聞いたことがあります。もちろんそこには色んな背景があるとは思いますが、でもある程度は、石徹白という土地の何かに惹かれて、つまりはこの場所を選んで縄文人は住んでいたのだと思う。その後、白山中居神社ができて、中世で白山信仰がピークに達し、戦後、都市部に人が流出し、過疎化が進み……といったざっとした流れがあるなかで、間違いなく言えるのは、石徹白に住むことってずっと厳しいことだったと思うんですよね。

 

僕らにはストーブがあって、除雪車が雪をどかしてくれて、峠の道は車で運転ができてっていうような感じで、ほんとに生ぬるい環境を生きているのに、それでも「大変だ」っていうような言葉をどうしても振りまいてしまう。もちろん、当時とは異なる大変さが今の時代にあるのも事実ですが、少なくとも生活環境という点においては、今とは比べ物にならないくらい、信じられないくらいに厳しかったと思うんですよ。それなのに、ここに人は住んできた、住み続けてきたっていう……そこには複雑で多様な理由があると思うので、決して一般化はできないと思いますが、ただひとつの大きな理由として、宗教的な部分というのは、かなり大きかったんじゃないかと思うんです。白山信仰の拠点を守るっていうところ……白山という霊山との仲介役としての自負を持っていたと思いますし、そこから派生して生まれる、この場所に生きる人だからこそ果たせる社会的な役割もあったと思います。

 

それで、自分たちは一応は選択して、そういう歴史を背負ったこの場所に住まわせてもらっているなかで、やっぱりこの土地に住んでいるからこそできることとか、この土地が現代の社会においてどう機能すべきかということについては、やはり考えざるをえないですよね。あとは、圧倒的な積雪量とか寒さとか、決して抗えない自然の厳しさがあるなかで、それでもここでどう生きていくのか、どう生計を立てていくのかを模索していくにあたっては、この地でどのように人が生き抜いてきたのかを知ることが、とても重要なのではないかということも感じています。

 

 

 

■前林:

いやが応でも、石徹白っていう場所の時間に組み込まれていくというのか、入っていってしまうというのか……まぁそれはどこに住んでいてもそうだと言えばそうなんだろうけど。でも石徹白の場合は、より強固なつながりを感じざるを得ないということかも知れませんね。

 

 

 

■岩瀬:

そうですね。僕らは今こうして、まぎれもなくツーリズムの事業者としてあわ居を営んでいるわけで、形態としては昔とは全然変わってしまったかもしれないけれど、でも抽象化してみれば、白山信仰で石徹白に信仰者が来ることと、ツーリストがあわ居に来ることには、それなりに似ている部分があるのかなと思っているところがあります。全然違っていながら、でもどこかで通底している部分も、またあるのではないかと。

 

石徹白って、大きく見れば農山村という語句で括れる場所だと思うのですが、お米がずっと作りにくい環境だったとも言われていますし、でも地形的にも高台にある盆地で、普通の農山村とは明らかに異なる、奇妙なつくりをしています。それに加えて、外部の人が頻繁に出入りしてきた場所だという意味で、すごく都市っぽいなぁという印象もあるんです。都市って知らない人同士が出会って、日常の円環の外に出るというか、外部に触れるうえで重要な機能を果たしてきた場所だと思います。時の権力者含め、いろんな人がこの場所に出入りしたり、あるいは逆に、特に冬季に布教のために自ら外に出向く機会が多かったりしたなかで、そこで得られる情報を経済活動にうまく結び付け、生計を立てていたという話を土地の人からも聞いたことがあります。そういった文脈から、今の石徹白という地を見て、じゃあ現代においてあわ居は、あるいは自分たちはここで何をしていったら良いんだろうと。

 

 

 

■前林:

この場所にどのような空間的な役割を重ねていくかという……そういうところが面白いですよね。この場所が確固とした揺るぎない歴史性と意味をもつ場所であると同時に、時代性とか現代性とか、そういうことを重ねながら変化していく場所でもあるというところが。

 

 

 

■岩瀬:

そうですね。過去をなぞりつつ、現代に即したかたちにしつらえ直すというか……伝統とか継承といったものは、おそらく目には見えないところでこそ成立するものだと思います。だからこそ、この土地で脈々と受け継がれてきたものに対して、一見昔とはまったく違うかたちに映ってしまうとしても、あるいはそこに商業性が絡んできたとしても、それでもそこをやっていきたいなというのはありますね。そしてその実践をすすめていくことが、自分たち自身がこの現代において特異化していくこと、個性化していくことともどこかで繋がっている、連動している。そんな気がしています。

 

 

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(*1)あわ居のホームページ上に掲載の「体験者インタビュー集」は、本書籍内の「あわ居の記憶」に全文収録予定。

(*2)池田知加(2014)「観光と場所 : 『没場所』から『場所の意味の復活』へ」『立命館産業社会論集』50(1)、pp.235-255、立命館大学産業社会学会

(*3)内田順文はイメージを「知覚、感覚、記憶、知識、想像などの全てを含む、いわゆる広義のイメージ」だとしたうえで、環境としての地理的空間である場所に対するイメージを「場所イメージ」だとしている。こうしたことから、内田は「場所イメージ」を「ある主体がある場所に対して思い描く心的な内容のすべて」の意で使用している。詳細は内田順文(1987)「地名・場所・場所イメージ」『人文地理』39 (5)、pp 391-405、一般社団法人人文地理学会

(*4)岡本亮輔(2012)『聖地と祈りの宗教社会学』pp.269-328、春風社

 

 

対談実施日:2024年3月29日