対談タイトル
「一緒に道をつくる」
外へのひらかれは、言語的な介入以外からも起こりうる。あわ居の実践を通じて見えてきた、要素と要素を有機的につなぐことの先にある、<外>への回路の創造について語り合います。
目次
・ひらかれの回路
・信頼とわからなさ
・いのちへの感受性
対談者:加藤健志郎さん
(プロセスサポーター)
1991年愛知県瀬戸市生まれ。大学生時代より、不登校の子、発達障がいをもつ子たちへのメンタルヘルスの活動や、発展途上国でのローカルコミュニティでの環境教育に従事。卒業後、建築を専業とする大手建築会社に就職。その後、地方のビジネスプロデュース、大企業・中小企業の組織変革のプロセス・コンサルティングの経験を経て独立。霊峰白山の麓の石徹白集落に移住し、子どもたち自身が自らを開放し、自らの暮らしや食べものを通して生きる喜びや、自身への信頼感を育めるような、子どもを中心にした場を育んでいる。エディブル・スクールヤード・ジャパンにてコミュニティ・オーガナイズ兼ビジネス・デベロップメント、グループティーチャーを担当。
◎ひらかれの回路
■岩瀬:
このところ、あわ居について整理されてきた部分で、あわ居というのはすごく抽象的な部分を扱っている場所なのかなということを感じています。例えば、お子さん連れのご家族が、現状にやや行き詰まりを感じている中で、その状況を解きほぐすことに伴走する。一方で、ある個人が自分の人生や仕事を進めていく上で、複雑になりすぎた状況に混乱しており、そのときほぐしや新たな秩序を立ち上げていくことに伴走もする。また時には、夫婦間の違和や滞りに対して、状況が良い方向に流れていくための働きかけをすることもある。
扱っている事案や、具体的な状況は一見すれば全く異なっていますが、しかしそれらに共通しているのは、何かしらの滞りや行き詰まりに対して、その状況を開いたり、外へと接続させていくような回路を、一緒に作っていくことなのかなという部分です。改めて考えた時に、こうした日常の中での滞りを覚えることは、人生の中で少なくない気がします。けれど、その滞りに対して、意識的に向き合おうとしないと、それを見ないようにも出来てしまう。その結果、また同じ失敗のパターンを繰り返すことになります。自分たちとしては、どんな滞りにも意味があって、それは実はその人や関係性が新しい形態に移行していくための重要な兆しでもあるという認識がある。
これまでは、あわ居本棟での「ことばが生まれる場所」の時間を通じて、主に言語的な部分での働きかけにより、行き詰まりを解きほぐすことに伴走してきました。しかし今年、あわ居別棟が出来て、別棟で起きていることを見ると、言語的な介入以外でも、またはあわ居という場所単体で考えなくても、そうした滞りに対しての伴走や支援が出来るのではないかということを感じています。極論を言えば、あわ居が直接的に何かをしなくても良いのではないかということを感じています。
例えば、直近の話で言えば、お子さん連れのご家族があわ居別棟をご利用くださいました。加藤さんにも関わって頂きましたね。この件においては、自分は直接的にはほとんど何もしていません。したことと言えば、宿泊のメール対応や、状況や様子の観察、都度の反応を確かめること、親御さんとの軽い情報共有、あとは、その時にその子に最適と思われるアクティビティの提案をした、それぐらいです。つまり環境をセッティングをしたくらいですね。直接的にその子の変容に直接的に関与したのは、加藤さんであり、石徹白の子であり、雪であり、スキー場での体験であり、、、、というのが事実だと思います。
ここから見えてきたのは、この石徹白地区の中にあわ居がある中で、アクセス可能なリソースをその都度、その人に対して最適な形でアレンジしながら、ある停滞的な状況に対して、それを乗り越えていくような提案や時間を、一緒に作り上げていくことが可能なのではないかということです。そうした行為への興味や可能性を、今すごく感じています。その意味で、自分たちの興味の核心には「ある滞りに対してのひらかれの回路を、その人と一緒につくる」という所があるのだと思います。そこのスペシャリストになっていきたいなぁって思っていますね。
■加藤:
それは、僕から見ても、あわ居はそこを願っているんだろうなぁっていうのは感じますね。あわ居の崇さんや美佳子さんという存在が生かされた状態で、そういう滞りに対して新たな回路が開かれていくことが、自然と起きるというところ。その人が抱えている状況が、新しいところへ移行していくっていうところに働きかけをするという部分ですよね。そうしたことをされていくうえで、あわ居がメディアとして認知される、つまり「あわ居に行けば何かが起きる」とか、「あわ居に頼めばなんとかなる」といったふうになっていくために、これからどうなっていけば良いのかなって考えると、やはりそこは信頼がベースな気がします。
例えば僕がコーディネートをしている、名城大学の学生の石徹白でのフィールドワーク時の滞りに際して、僕があわ居にヘルプを求めたのは、「この状況でもあわ居にいけば何かが起きる」という信頼を、僕があわ居にしていたからですよね。選ぶ人が、何に信頼を置くかってバラバラで、いろんな繋がり方があるのではないかなって僕は思っています。
例えば、あわ居の「ことばが生まれる場所」の体験者でもある、僕の友人とも良く話すんですが、多くの人は、今自分の目の前で起きていること自体の認知は出来るんだけれど、その起きていることがなぜ自分に違和感をもたらしているのかっていう、そのシステムが自分では見いだせないんですよね。例えば、僕が何か仕事上でトラブルが起きたときに、それに対して自分はこう思ったという反応をすることで、ひとつ完結しますよね。それはひとつのシステムが回っているということだと思います。Aが起きたらBという反応をするというシステムです。でも、そのシステムをどうして自分が回してしまっているのか、なぜそうなっているのかを、俯瞰することが自分ではできないんですよね、自分ではそのループから抜けれない。
そこに対して、自分一人で内省するのではなくて、信頼が出来る人と一緒に、それを俯瞰する視点や、そのループを抜け出す回路を探索し、作っていくことが必要になると思うんです。それが学習の方法だと思います。僕の場合は、そういうプロセスを、あわ居のお二人と一緒に作っていきたいという欲求が日常的に湧くんですよね。自分はそういう形での信頼をしているんですが、でもこれは個々によってそれぞれ信頼の仕方は違うと思うんです。
◎信頼とわからなさ
■岩瀬:
信頼のところで言うと、自分の感覚としては、伴走しはじめの段階では、わからないんですよね。目の前の滞りに対して、どうすれば良いのか、どうなるのかがわからない(笑)。例えば、目の前に表情が沈んだ人がいて、伴走をお願いされたとしますよね。そして、自分もそこに伴走することを決めたとする。でも、その時点では、どのようにすればその滞りから抜けられるのかは、わからないですよね、お互いに。当然ですが、あわ居にヘルプを求められる方は、本人自身がどうすればいいのか、自分は何を求めているのかも分からない状態ですよね。その中で、とりあえずあわ居を求めてくださっていると(笑)。その中で、いろいろ様子を見たり、対話をしたりしながら、今その場で何をすれば良いのか、何をしない方が良いのか、こういう可能性があるかなとか、いろいろ思案しつつ、提案をし、相談もしながら、介入もあり、、、、。そうした試行錯誤を繰り返す必要があると思います。
自分たち自身にもわからない状態で、はじめなければいけないわけだから、やりようによってはものすごく無責任に応じることも出来ますよね。すみませんわかりませんでした、と。(笑)。あとはいくらでもだらだらやることも出来る。「負っている」という言葉がありますが、ただ客体としてあぁだこうだ言うのではなく、本当の意味で、その人の、その状況を引き受けるとか、その人の生に寄り添うのは、覚悟が必要になるのかなって思ってます。ヘルプを頼む人にとってもリスクだと思うんですよ、だって頼む時点で「どうすれば良いのかわかりません」というか人に任せるわけだから。でも、そこを超えていくのが、やっぱり信頼なのかなって僕自身は思ってますね。あそこに行けばなんとかなるとか、あそこに任せれば大丈夫って。
■加藤:そうですね、僕はもっとシンプルな話だなと思うんですが、例えば医者に行くときに、明確に歯が痛かったら歯医者だし、目が痛かったら眼科だし、でも何が原因かわからなかったら、とりあえず総合病院にいって、そこから細分化されていくじゃないですか。それで見てもらって、「あ、骨の検査ですね」ってなっていく。そういう段階があるはずで。そういう診断っていうのも、目の前のその人と対峙して、その人の今を背負うからできていくことですよね。
■岩瀬:
そうですね。原因や対処法がすぐにわからないケースも多い気はしますが、それでもあわ居にヘルプを求めてくれるというのが、すごく嬉しいし、そこに応答できる自分たちでいたいなって思います。そういう信頼感を育んでいきたいなぁって。今までは本棟の「ことばが生まれる場所」で出来ることをやっていた。でも、もう少し総合的にというか、まずは「こういうところで行き詰っている」っていう部分を相談してもらって、そのうえで、あわ居本棟、あわ居別棟、その他石徹白に遍在する要素、あとはオンラインでの働きかけなどを都度組み合わせながら、その人のその状況にあった方法を提案し、応じていくいう流れを作っていくのは方法として面白いなぁと思いますね。
あとは、精神病院を廃止したイタリアの精神保健をとりまく考え方はすごく参考になるなぁと思っています。日本でもそのような認識に移行しつつあるとも聞きますが、イタリアでは、ある精神的な困難を持った人がいたとして、その病の専門家は、その病を患っている本人しかいないという考え方をするというとのことです。そして面白いのが、イタリアでは、そうした精神的な病に対しての状況の進展を、精神病院という閉鎖的空間でするのではなく、地域の中においてもしていく。精神的な病を患った人を精神病院で隔離している状況というのは、その人たちをそういう形で抑圧し、その状況を許容してしまう社会が病んでいるんだとイタリアでは捉えるとのことです。(*1)。
ではなぜ社会は彼らを狂人と名付け、隔離してきたのかを考えると、それはおそらく、彼らと対峙することで、自分と他者との関わり方が問い直されてしまうからなのだと思います。つまり自分が乱されてしまう。そこをしたくないから、檻にいれるということをしてしまうんだろうなぁと。
ここから考えたときに、ある種、社会と隔絶されたアジールというか、一旦避難する場所というものが、社会的に必要である一方で、地域や社会に偏在するいろんな要素の手をかりながら、その人の世界を大事にしたうえで、社会や地域と継続的に関わること、滞りがなくなったり、そこに対して働きかける時間が生まれたりする可能性もあるんだろうなあって思ったんですよね。この人の滞りと、地域の中のあの人をつなげると、なにかが立ち現れるんじゃないかなという感じで、点と点を有機的に繋げていく。
■加藤:
面白いですね。先ほど、伴走し始めの段階では、どうしたらいいかわからない、っておっしゃっていましたが、それはやはり、答えをあわ居が持っているわけではないという前提があるからだと思います。あわ居が答えを出すのではなく、その人自身が道を見つけるということを信じているからだと。そこを信じているからこそ、わからないって言えるんだろうなって。あわ居が一緒にその人と道を作っていく時に、その状況の中で、一緒に体験するっていう関わり方をしているからこそ、そこに道が見えたり、俯瞰して感じられたり、何かにぐっとフォーカスされたりすることが起きるのかなということを感じました。その意味でも、今お話しされた地域や社会と接続するというお話はとても可能性を感じるお話ですね。ふと今、佐藤初女さんの言葉が思い起こされたので引用しますね。
““私はじぶんからはあまり話さないで、聴くことを大事にしております。先入観を持たず、自分の中を空っぽにして、その方の身になり、こころを置き換えて、一心に耳を傾けるのです。はたから見ればたいしたことではないと思うようなことでも、本人にとってはそれが苦しみのもとになっているのですから、その人が感じている重みのままに受けとめたいと思っています。悲しみや苦しみでこころが詰まっていた人も、話しているうちに、自分で自分の道に気づかれます。人になにか言われたり、諭されたりすることは、正しいことだとわかっていても、なかなか受け入れがたいものです。それに、悩みを多く抱える人も、本当はどうすればいいのか、自分でわかっているものなんです。ですから、私はこたえを出そうと思っていません。私がなにかを与えるということではなく、私もまたお会いする方々からいろんなことに気づかされたり、いただいたりして、そこでともに考え、ともにこたえを出して、一緒に進んでいくのです。(*2)””
◎いのちへの感受性
■岩瀬:
見えない状況の中で、手探りでその状況を乗り越える道を自分なりに作ることであったり、それを乗り越えるためのことばを探索するといった技法は、おそらく現行の教育機関の中では学習する機会がなかったのではないかと思うんです。道がない状況で道を即興的につくることや、未知の中でも進むべき方向を見出すためには、おそらく、いのちや身体への感受性が必要になるのではないかということを自分は感じています。そういう意味でも、それらの感受性を磨き、自らのいのちやことばに寄り添っていく技法を感得していく機会を作っていくことの必要性を感じています。
■加藤:
多くの学校って解答が用意されていますよね。あらかじめ用意された問いを考え、求められている答えを出すことが正解だと思い込んでいるように思います。例えば、シュタイナー教育を提唱したルドルフ・シュタイナーは、「人間は自分をまったく無にして、他者の言葉を聞けるようになる」(*3)といった旨の言葉を残しています。それを信じている。自分の意見や自分が感じていることは完全に横に置いて、正反対の意見であっても、仮にひどいことを言われた時でも、それを受け入れる練習をしていけば、その言葉を発した他者と溶け合うことで、相手の言葉を聴くことが出来ようになる、その上で、相手の魂の中に入って、自分を出せるようになるのだと言っています。そして、そうした行為がより出来るのは子ども達だと、シュタイナーは言うんです。つまりそうした力が、元々人間に備わっていると彼は信じている。逆に、「これが正解ですよ」とあらかじめ差し出され、正解そうに見えることばかりを選んでいると、それを正解だと思い込んでいる自分こそが本当の自分であるかのように感じてしまって、それ以外の意見を聴けなくなってしまう。そしてそのようにして意見を聴けなくなってしまうことが、大人になる過程でよく起きてしまうということをシュタイナーは指摘しています。
自分のことばを作ることや、自分の生やいのちを育んでいくことに取り組んでいくにあたっては、それまで信じていたものや、しがみついていたものを一旦手放せなければ、新しく何かが入ったり、流れたりしないのではないかと思っています。そうしたものを、手放すためには、先ほどの佐藤初女さんの言葉にもありますが、誰かに何かをそのまま聴いてもらうことが必要なんだと思います。それがあわ居では最初に取り扱われるから、新しいことばが生まれることであったり、自分で未知に踏み出そうっていうことが起きるのではないかと思っています。言葉だけではない、空間や身体性の部分で言えば、美佳子さんの食事を通しても、それをあわ居に感じますよね。特に、僕の場合は受け入れられているとか、与えられている感覚、その場で自分を許せている感覚が起きるということに対して、一緒に何かを食べるということの力の大きさを実感して、自分自身の子ども達の場づくりにあたっても、そのことはとても大切にしているんです。
■岩瀬:
新しいことばを立ち上げることや、道がないところに道を探索することは、基本的には恐怖を伴うことだと思います。混乱や遭難する感覚があると思う。だから安心感というのは非常に大事な要素ですよね。それが対話という形だけではなく、様々な形で実感できる場でありたいし、先ほども申した通り、それが必ずしもあわ居の中だけで実感されなくても良いのかなとも感じています。状況や環境のセッティングや、いろんな要素をつなぐという部分にだけ関与する形でも全然良いと思います。
そういう意味でも、もう少し総合的な意味でのメディアになりたいと潜在的に思っているのだと自覚しています。総合病院ではないですが、まずは困りごとを相談されて、話をいろいろと聴く中で、あなたは本棟で「ことばが生まれる場所」に参加されるのが良いのではないか、あなたは別棟が良いのではないか、あなたは加藤さんのところのガーデンで、土に触れるのが良いのではないかみたいな形で、その人が現状を抜けようとする道を作っていくに際して、有効になりそうな要素をあわ居を媒介にしてつなげ、連結するイメージですね。
むやみやたらに繋ぐだけでは当然意味がなくて、その人の状況、運用しているシステム、あとは当事者や関係者の声も聞きながら、そこに有機的に働きうる要素を結び付けていく、そんな技法が必要な気がしています。イタリアの精神保健の話で言えば、自分の専門領域の技術や知見も当然必要な一方で、精神を病んだ人と、地域に遍在するいろんな要素に関連を見出し、そこを繋ぐセンスが必要とされているといった記述もあります(*4)。つまり、「今のあの人、あの店で働くとなんか良さそうなんじゃないかな」といった感じで。そういう勘は、知力ですよね。そういうものを自分たちも磨いていきたいし、その媒介をするメディアになっていけたらいいなということを思っています。
■加藤:
その上でも、さっきのその人を「負う」の話ではないですけど、そのくらいの覚悟や重さで向き合っていくことが重要だし、だからこそ互いに響いていくんだろうなぁということを感じますね。その重さで人と向き合ってくれているんだっていう信頼感があるからこそ、あわ居に訪れた人は、未知の提案に対しても応答していけるのではないかなということを感じました。
(*1)松嶋健『プシコ ナウティカ イタリア精神医療の人類学』
(*2)佐藤初女『いのちの森の台所』
(*3子安美知子『「モモ」を読む―シュタイナーの世界観を地下水として』
(*4)松嶋健『プシコ ナウティカ イタリア精神医療の人類学』
インタビュー実施日:2021/5/18 聞き手:岩瀬崇