対談タイトル
「時の綾-生きることの旅と詩-」
歴史の荒波や社会の不条理のなかにあって、それでも私たちのよすがとなるものとは何か―。シュテファン・バチウ、旅、詩、抵抗、偶然と必然といったテーマをめぐり象られていった、生の根源へと向かうダイアローグ。
目次
・ささやかなものへのまなざし
・詩よ、抵抗せよ
・出遭うことの詩
・詩としての旅
・偶然と必然
・直線の外へ
・他者の顔
・時を編む
対談者:阪本佳郎さん
(文学研究者)
1984年大阪生まれ。2020年、東京外国語大学大学院博士後期課程修了(学術博士 PhD.)。詩人シュテファン・バチウの足跡を追って、ルーマニア、スイス、ハワイと移動を続けて調査。バチウと親交を結んだ人々、詩人の愛した土地を訪ね歩き、「MELE:International Poetry Letter」をはじめ散逸した資料を収集。2018年バチウ生誕100周年の記念祭をホノルルと京都にて主催。バチウの足跡を辿る中で出遭った各地の詩人や作家、芸術家たちより作品を募ってできた詩誌「MELE:ARCHIPELAGO」をバチウへのオマージュとして2019年に刊行。『シュテファン・バチウ ある亡命詩人の生涯と海を越えた歌』(コトニ社)を、2024年4月に刊行。
●ささやかなものへのまなざし
■岩瀬:
今回は対談の実施にあたって、息子の渚君と一緒にわざわざあわ居にお越しいただきありがとうございました。白山中居神社や阿弥陀ヶ滝をはじめ、石徹白周辺のいろいろな場所をご案内できて嬉しく思います。今日は生と詩、あるいは旅といったキーワードを中心に据えながら、互いの実践や経験についての話を交差させるなかで、あわ居についての考察を深めたり、そこから派生的に知を伸ばしていくような時間にできればと思っています。まずは阪本さんが一貫して追及されている詩人のシュテファン・バチウについて、簡単なご紹介をお願いできますか。
■阪本:
シュテファン・バチウは歴史の災厄に追い立てられ、ルーマニア、スイス、ブラジル、ラテンアメリカ諸国、北米、最後にはハワイ、と、ひろく世界を旅した、知られざる流謫の詩人です。第一次世界大戦直後のルーマニアに生まれ、若くして時代を牽引する詩人として認められますが、ファシズムに傾く体制において鬱屈し、第二次大戦後には共産党独裁体制へと移り変わるなかで反体制詩人・ジャーナリストとして圧殺され、スイスへと逃れました。せまる追手を振り切るように大西洋を渡り、ブラジルへ政治難民として亡命。そこでポルトガル語とスペイン語を身につけ、詩人・ジャーナリスト・翻訳家としてラテンアメリカ各国を旅し、各国の軍政や全体主義体制へと反抗する論陣を張ります。
一九六二年にはシアトルの大学でラテンアメリカ文学・文明論を講じる客員教授に招聘されましたが、同地滞在中に、ブラジルで軍事クーデタが起こり、愛する第二の故郷リオデジャネイロへの帰還を断念。今度は太平洋を渡り、一九六五年、ハワイはホノルルへと移り住みました。世界の涯ての群島から、ヨーロッパ、北アメリカ、ラテンアメリカ各地の新聞や雑誌に、詩や批評、政治評論を寄稿、すべての記事をあわせればその数は七〇〇〇を越えると言われています。また、遍歴の途上で出遭った夥しい数の詩人や作家、政治家、芸術家の友人たちに手紙を送り、作品を募っては送り返すことでできた詩誌MELE International Poetry Letter『MELE 詩の国際便』(ハワイ語で、「詩や歌、祈り」の意。以下、MELE)を刊行。1993年にホノルルにて客死するまで、海と大陸を越え、世界大にひろがる詩のネットワークをつくり上げました。
バチウは、敏腕の国際政治記者でありながら、国家や民族といった集合的規範、イデオロギーの大きな言説をめぐる諍いには加担せずに、絶えず目の前にある具体的な人々や出来事について書きました。彼の文学は、たどり着いた土地の先々で生を交わす、かけがえのない「他者」のことを言葉にして留め、そのささやかな日常をこそ恩寵として歌う詩でした。災厄に見舞われるたびに喪われる時や土地、友情を交わした人々に想いを馳せ、深き〈郷愁〉とともにそれらの記憶を刻印していくことに、バチウの文学の本領がありました。詩や回想録などの文学作品は「手紙」のようなささやかさ、親密さを基調としたもので、発行部数も少なく、大規模に流通するものではありませんでした。そのため、地球上のいずれの土地においても、ほぼかえりみられることはありませんでした。その無名性はまた、ルーマニア、ラテンアメリカ、そしてハワイといった、西洋中心の世界からすれば周縁とされる土地ばかりを歩んできた道行きにもよるものでもあるのでしょう。
このようにバチウは忘却の淵にある、知られざる詩人なのですが、私は、二〇〇五年~二〇〇六年にルーマニアに留学していた時に、偶然にMELEを手にとることになり、その十数ヶ国語で書かれた詩が同居する一冊に心惹かれたのです。そこから、さまざまな縁があって、シュテファン・バチウの遍歴の足跡を追いかけ、その世界大の詩のネットワークを今の時代に浮かびあがらせることを志すようになりました。拙著『シュテファン・バチウ ある亡命詩人の生涯と海を越えた歌』(コトニ社、二〇二四年四月刊)は、博士論文をもとにしたものですが、形式化された学術的成果に収まることを望んだものではなく、ただ純粋に、詩人の生を現代の世界に差し出したかった。今の世においてこそ、バチウは顧みられる価値があると信じるゆえの試みだったのです。
■岩瀬:
なるほど。現代という時代においてこそ、バチウの歩んだ生が希求されるのではないかと……阪本さんが感じられているその「価値」について、さらに詳しいお話を聞かせてください。
■阪本:
現代は「他者への想像力、他者を想い遣る力」が、ひどく切り狭められている時代である気がします。勝ち負けとか、敵と味方とかいうような簡単な二項対立に落とし込まれて、そういう視点で人は世の中を判断し、自分がどちらなのかを決め、また他者にそれを強要する。バチウはジャーナリストでしたけれども、大きな国家やイデオロギーの対立として意見表明をするのではなく、できる限りの生身の経験を大事にしながら、具体的に自分が出遭った人間、場面から判断して言葉を紡ぐということをしていました。例えばバチウは、チェ・ゲバラに案内されたキューバの監獄を印象深く回顧している。生身の経験があるから、彼はゲバラをフォローすることをしなかった。反戦の人はゲバラを偶像化したわけですけど、でもそういう大きな物語になりそうなところで、バチウは一歩踏みとどまって、個々の生に想い至そうとした。物事を自分の眼で見て、思考する、あるいは見えない消されてしまった存在のことを想像しようとする、彼にそれをさせているのが、やはり旅なのではないかと思います。ひとつひとつの出遭いであるとか、「他者」との避けられない接触からしか「真実」は立ち現れてこない、そうした信念がバチウにはあったのだと思います。”情報”に徹底的に囲い込まれ飼い慣らされ支配されている現代的日常は、画一的な方向へ人を押し流す力がとても強いようにおもいます。生身の経験を置いてきぼりにして、ネット上の情報の取捨選択が考えることに代わられてしまっている。バチウは、時代を越えて、そのことへ警鐘を鳴らしているように思います。
■岩瀬:
生身の経験を大事にすることの重要性。非常によくわかる気がします。そしてそうした態度をバチウが持てていた背景には、「旅」があったのではないかと。おそらくここでの「旅」というのは、一般的にその語から連想される意味合いとは少し異なるものなのかな、という印象を抱きました。
■阪本:
いまこうして息子の渚とあわ居に来て時間を過ごしているわけですが、それは場所を移動するという意味合いにおいてだけではなくて、そこでのひとつひとつの出来事がもう旅なのだと思います。家に居て、一つの料理を家族のためにつくるのも旅だと思う。渚がどういう時間を学校で過ごしたんだろうか、妻が大学でしている授業内容はどんなだろうとか、そういうのを想像しながら日常生活をするだけでも、すでに詩であると思います。そうした日常が、明日あるとは限らないのが歴史。大きな歴史は、小さな個人の生の営みには無頓着ですよね。でもバチウは、そうした人々の生きるささやかな日常によって書かれる歴史があるというんです。僕は、恥ずかしながら日常を放擲したようなところで、バチウを追いかけていたところがあったのですが、そのバチウが大切にしているのが何よりも日常の詩学であるということに、後々、自分が日常に直面するなかで気づきました。その時に、深く反省しました。子どもや妻には感謝してもしきれない想いがあります。
あと、子どもって捉えどころがなくて、未知そのものですね。子どもも日々変わる。彼と向き合うなかで、自分自身もどんどん変わってきてます。子どもが水先案内人になってきてるというのか……子どもによって日常が深堀りされている感覚がすごくある……いわゆる旅というのは自由な感じがしますよね。家族から離れてバチウを追いかけてハワイやルーマニアに行っている時は、僕一人が世界と対峙している感じ、あるいは世界と共になっているっていう感じがしていたのです。そこでさまざまな導きがあって明らかになっていく謎がある……それは途方もない喜びなんです。でも、日常の家族との時間のなかでの旅というのは、言い方に問題があるかも知れませんが、ある意味では、不自由ですよね。好きなようにはいかない。譲歩してばかり。でも自分の圏域とは違うところで生きないといけないからこそ、まったく異質なものと出遭えるということがある。そうして得られた眼差しが、今の自分を形づくっている。
■岩瀬:
なるほど、面白いですね。バチウを追うために、身を投げうって様々な土地を旅していたのに、でもそのバチウ本人が生きる上で重視していたのが日常性というのか、ささやかなものへのよろこびであったという……そのことにあらためて気付いたことで、これまでとはまた違った阪本さんの生がひらけているというのか……。
■阪本:
ちゃんとバチウを読んでいたら、それに気づくはずなんですけどね。自分が思い描いた道や、先を歩んでいる人の道を、そのままに歩めるわけはない。旅にあっては常に学び逸れていくから。学び逸れていくはずなのに、自分が頭の中で過信する道に固執しすぎると、周りが見えなくなりますね。
あるいは逆に、学び逸れていくなかで出遭うものが、自分の中で、どんどんと膨れ上がっていったということもあると思います。日本、ルーマニア、スイス、ハワイ……それぞれの土地のもつ宇宙の深み、その魅力は遥かにバチウ個人を越えてありますから。バチウがささやかな日常を相手にしていたから、「このように小さく平凡なことにどこまでの価値があるのだろうか」って少し物足りないって思ってしまっていた時期もありました。しかし一周回って気づかされたものこそ、バチウに対して物足りないって思ってしまっていたものだった。もちろんどちらが良い悪いではないと思います。僕らのささやかな生こそは大事だよねと云って、社会とか歴史に対して盲目的になってしまったら、自分から奴隷になることに等しいですから。いろんな準拠枠があって、そのなかでいかに自分たちが自律性を守り抜けるかということが何より大事なのだと思います。
●詩よ、抵抗せよ
■阪本:
現在のウクライナもガザもそうやと思いますけれど、ここまで圧倒的な不条理が満ちあふれていると、人間が不活性になってしまうと思います。「仕方がない」とか、「覆りようがない」とか「暗いことだらけだね」っていうかたちで、社会のさまざまな場所でそんな空気が作られてしまって、抗えなくなってくる。少なくともそうやって、僕らが沈んでいくことによって、力を得てしまう誰かがいる、そういう力学があると思う。
でも、「日々笑顔でいて、生きることを精一杯やって、互いに支え合うっていうことだけでもすごく立派な抵抗だよね」って相方のイザベルが、ある時言ったんですね。それにすごく救われたんです。そしてそのことを『シュテファン・バチウ』のあとがきにも、熱く書いたんです。それこそが、バチウの詩を貫き通している、すごくシンプルな思想のあり方だとも思ったから。
普通に考えれば、バチウは絶望してもおかしくないわけです。彼は、喪失とノスタルジーを絶えず抱えながら、言葉を紡いだ詩人です。彼はその遥かな旅において得ることも多かったけれど、失ってばかりの人でもありました。かけがえのない数々の出遭いと同じ数だけ、避けられない別離に見舞われた。でもそのひとつひとつを言葉にして、自分のいのちのなかに息づかせていた。彼は「詩よ、抵抗せよ」って言います。だから、言葉にすることは、抵抗なんです。
バチウが、ホノルルの浜辺でサンダルを履いて散歩をしていると、砂粒がサンダルと足の間に挟まり、ざらざらとする。そこには異物感があるわけだけれど、彼にとってその一粒一粒が今まで歩んできた土地の記憶なんです。そして、それは砂時計の落ちていく砂、とめどなくこぼれ落ちていく時のカケラでもある。彼はそういったものを詩の言葉によって、ふりまくんですよね。サンダルについた砂を、希望とともに太洋にふりまく。その砂つぶが、祖国だというんです。それが自分が還ってゆく場所だと。それは国家とも名付けられないし、明確なひとつの土地でもない。
ルーマニア語の言い回しに、形あるものもいずれは儚く灰塵に帰してしまう、その諦念を表す言葉があって、praf și pulbere「埃と塵」といいます。これはいのちそのもののメタファーでもあって、結局、何をするにしても諸行無常、塵や埃になってなくなってしまうということを云っています。彼の代表的な自伝がPraful de pe tobăで、これは訳すと「太鼓に舞い散る埃」です。太鼓を叩くと打面の埃が舞い散り、弾け飛んでいきますね。ここでの「太鼓」というのは軍隊とかマーチ、ひいては「行軍」として描かれる大きな「歴史」を表す。「埃」は歴史に弾き出され、離散するしかなかった小さく儚い人間、つまり自分たち詩人であるということ……何をやっても歴史から弾かれてしまうのだけれど、でもそういう小さな存在としてのよろこびというものがある。
バチウは、同じく、友人でもあるエクアドルの詩人ホルヘ・カレーラ・アンドラーデによる“Aqui yace la espuma”という詩句を引きます。「海の潮の泡は、ここに佇み」という意味です。すべては「海の泡」のように長い時をかけて此岸へ辿り着くも、一瞬のうちに消え無くなってしまう——。でも、実は、その泡は、かわらず渚に在り続けてもいる。そのことへの希求…。諸行無常のようでいて、でもその「瞬間」は詩の中に凍結されて、ここに在る。これが希望だというんです。旅というのは、喪失に溢れているものだけれど、どこでくっついてきたかわからない足裏の砂粒ひとつのような記憶でさえ、生きることに繋がっている。言葉がそれを証する、その実感をバチウは誰よりも大事にしていました。
■岩瀬:
いろんな圧力や不条理、歴史の不可避な流れといったものがあるなかで、そこに振り回されながら、なお抵抗すること、自分の言葉を紡ぐことはとても難しいことですよね……先ほどのささやかな抵抗の話ではないですけど、今の暗い社会のなかで、笑顔でいることだってすごく難しい。
自分の話で言えば、二〇一五年にイスラム国に日本人が二人拘束され殺害された事件であるとか、ウクライナとロシアの戦争、あるいは先日の能登半島地震もそうですが、その都度、自分自身になにか直接的な被害があったわけではないにしても、社会に対しての絶望というか、「あぁ……」と思ってしまうことは、やっぱり多々あります。イスラム国による日本人殺害の話で言うと、自分はあくまでネット上でいろいろと情報を集めただけですけど、そのなかで自分に起こったのは、それまで自分が想定していた未来というものが、全部そこで無くなってしまったということでした。しかもそれは長女が生まれてすぐの出来事でした。
人間って「こういう過去があったから、未来もこんな感じになるかなぁ」っていう、そういうものがあると、わりと安心して日々を生きられるところがあると思います。でもあの時は、そういうものが全部なくなってしまった。自分がどこに居るのかがわからない感覚がしばらく続いて……そのなかで色々ともがくわけですが、一番痛烈に感じたのは、至極当たり前のことですけど、自分はいつか死ぬんだなということでした。
そうなった時に、この限られた人生のなかで、他者とちゃんと関わることをしたいなというふうに素直に思ったんです。そこにこそ、何かがあるんじゃないかって……良い意味で、誰かによって自分が傷つけられて、自分自身もまた誰かを傷つけるというような……ここでの傷つけるっていうのは、もちろん痕跡を残すという意味合いですが、そういう相互侵犯的な生をひらいていこうと、そういう時間を重ねていこうと思えたところで、なんとか自分を立て直したところがあったんです。
自分は岐阜県の大垣市に生まれ、イスラム国の事件があった頃は、実家の三代目として書道教室を営んでいました。でももうどうやってもそこでは生きられなかったんです。それは別に迫害されたとかそういうことではなく、そこを自ら離れるっていう選択をする以外に道がないっていうくらいに、精神的におかしくなってしまっていた。中山間地域への移住っていうと、多くの人から見れば、能動的にやっているように映るかもしれないけれど、自分としてはそうせざるをえなかったところの方が大きいわけです。そのことをもう少し深く見ていくと、そこには今の社会的状況であるとか、そこで支配的になっているコミュニケーションの様式に耐えきれなかった部分があったということだと思います。結局、自分はそういうものに押し出されて、今家族とともに、この石徹白という土地に居るんだろうなという整理をしています。
でもそれをしたがゆえに、あわ居を通して未知の他者と出遭えたり、自分が望むようなコミュニケーションができている感じはあります。それこそ、「日常を旅にする」じゃないですけど、あわ居を育てていく過程、ここで時間を重ねていくなかで、いろんな交わり、いろんなひらかれが生まれている。もちろん、いろんなものは推移していくので、その都度そこで精神的にかき乱されることはあるわけですが……でも、そういうことを重ねるたびに、より力が抜けていっている感覚があります。
■阪本:
僕も会社勤めを凡そ三年間やっていた時に、「ここではもうやっていけない」と思いました。当時、僕は比較的大きな企業で働いていて、織物商材のバイヤーの仕事をしていました。その企業は中国の工場と取引をしていて、三年目にもなると海外に視察に行きますよね。その工場の環境が、あまりに劣悪でしたし、現地で話を聞いても、業界全体が、当時中国の安い労働力を求めて、より奥へ奥へと工場地を開拓している最中でした。日本の企業が大きな工場を作れば、そこには小さな町ができますね。多くの人々が、土地を離れて、労働者として集まってくる。でもその町がずっと続くわけではない。企業は、さらに労働力の安い土地を求めて、つねに新たな土地を探しているからです。
元々の工場は潰れ、別の土地へ移ってゆく。すると仕事がなくなった人々の町はどうなってしまうのか。人々はさらに土地を追われ内陸へ、さらに貧しくなるために移動していくのではないか。さらには、企業社会とか日本のシステムは、軍部みたいな部分を、いまだにひきずっているんです。会社で「大本営」っていう言葉が違和感なく使われたりするんです。「これは大本営決定だから仕方がない」って。それに対して、疑問に思う人もほぼいないわけです。陰でいるのかも知れませんが。そうすると「もうここにはいられないな」って思うわけです。
何より怖かったのが、社内の電子システムでした。前年、スリッパを一万足売っていたとして、よく売れたから次は十万足売りましょうとなった時に、その数字を入力するのは一瞬です。でもその瞬間に何が起きるのかというと、中国の工場の単純な労働量が十倍になる。それまで一日八時間労働だったのが、十三時間労働になってしまうかも知れない。僕が一個数字を入れ替えるだけで、そういうことが起きてしまう感覚のおかしさ……。でもそれをみんな普通にこなしている。なんなら「旧正月に労働者たちがいなくなるのが面倒くさい」と言い出す人もいるのです。経済合理性とか利益追及をして、感受性を奪う環境で生きていくことは難しい。精神的にも切実な状況になって、僕は会社を脱け出しました。なんとか通い続けた会社で、自分にとって唯一の息をする方法だったのが、本を読むことでした。特に今福龍太さんの本を貪るように読んでいました。この人に手紙を書かないともうどうしようもない、という状態にまで至って……手紙を出し、東京まで会いに行きました。そして、大阪に戻った次の日に会社に辞表を提出していました。
はじめて今福さんに会った時に、「君はルーマニアにいたのなら、シュテファン・バチウのことを知っているか?」ということを言われたんですね。そこで自分は「知らない」と答えたわけですけれど、家に帰って、自分の部屋にあった以前ルーマニアで買った詩誌をふと見ると、シュテファン・バチウの名前があり、しかも主宰していることがわかった。これは不思議なことなんですけれど。二〇〇五年、自分がまだ学部生だった頃にはじめてルーマニアに行き、現地でよく古本屋に行っていたんです。そこで一冊の雑誌を手にした。そこには十数カ国語が書かれた詩が無秩序に掲載されていて……読めない言葉でいっぱいに溢れていたことが逆に魅力に思えるくらいだったんです。自分はびっくりしてその場で詩誌を買ったのです。それがシュテファン・バチウがホノルルで刊行していた詩誌MELEでした……僕は当初は、何でもいいから今福龍太さんに学びたい、そう思って弟子入りしたのですが、このMELEの偶然、むしろ必然もあり、シュテファン・バチウを追う方へ向かっていったのです。
●出遭うことの詩
■岩瀬:
まさしく出遭いの話ですよね。自分が思うのは、そういう出遭いというのは、システムの歯車として時間を過ごしているなかでは、なかなか呼び込めないということです。そういうところから自ら脱出して、良い意味での宙づりの状態、どっちつかずの状態にいる時にこそ生じるものなのかなということを思っています。そして「確かさ」というものは、そうした出遭いのなかでこそ、実感できるものなのではないか。そして「確かさ」を感じ取れているところにこそホームがあるし、居場所があるのではないかと、そう思っているところが自分にはあります。
つまりどこに所属しているとか、どういう肩書を持っているとか、国家であるとか……そういうところから得られるアイデンティティに「確かさ」はなくて、その都度出遭う他者、場所、モノなどとの相互作用のなかにこそ、その瞬間にこそ「確かさ」があるのではないか。それはつまり詩ですよね。そういう詩を不断に手繰り寄せていくところにこそ、その人のかけがえのない生の展開があるのではないか、そう思っているところが自分にはあります。けれどもそういう「確かさ」を徹底的に疎外しようとする力が高まっているのが、現代の社会なんだなということも同時に感じている。
■阪本:
今の社会では、「お前は何者なのか?」っていうのを常に問われますよね。小さいころから「将来何になりたい?」って聞かれて、そこで職業を一つ挙げることからはじまり、その後は受験という目的に向かわされ、しかもそこでは点数という規範化された量で測定される。その先に、社会が用意した「何者か」があって、それに当てはまらない人は、どこか不完全であるというような認識を植え付けられる……。
それに学校教育では、他者を想像するとか、ケアするとかいうことはほとんど教わらない。数字で測定可能な深みのない能力を自己達成の目標として一律に走らされる。教育は、皮相な「自己実現」のことばかりです。これでは、世界は自分に閉じてしまう上、その自己も表層に留まって、内実まで深まっていかない。そうして実際、他者への想像力を欠いた社会になっているように思います。
そういうことでいうと、バチウって何者かわからないんですよ。ルーマニアではジャーナリストとか文学者とか色んな職を転々とした。その後大学で教えていて、彼を慕っている人は多いから、そういう意味では教師かもしれないけれど……でもどの職業名によっても彼は言い表せられない。それに彼はいつも人について書いているんです。自伝で言えば、章タイトルが全て他者の名前になっていて、しかもそれは、歴史の陰に追いやられてしまった人の詳細な記録なんです。もちろんそこに自分は出てくるんだけれど、でも主人公はいつも「他者」なんです。それはハワイ時代もそうだし、ラテンアメリカ時代もそうです。そんなこと、なかなかできることではない。でもそのことが、何より彼自身をあらわしている。誰に読まれるでもなく、そういうものを書いているのがバチウなんです。
これは、とても大切で面白い在り方だと思います。「お前は何者なのか?」ということが問われる近代社会に対して、そうした規範的な命令には無頓着に、バチウは「他者」のことばかり考えて、想いと言葉を尽くして生きていた。こうした生き方は、僕らに対してすごく大事な想像力の持ち方を、あるいは、自己についての考え方を提示してくれているような気がしています。そういう生き方をバチウができたのは、結局は彼が旅人だったからだと思うのですね。自分がその土地に根付いて何かを生産していくのではなく、来訪者とかまれびとであるという視点をいつも失わなかった。見て、聞いて、自分を通り抜けていくものの愛おしさについて、彼は言葉を紡いでいた。
■岩瀬:
今お話を伺いながら、書籍『あわ居-<異>と出遭う場所-』の制作にも関わる部分があるなぁと思っていました。『あわ居-<異>と出遭う場所-』の制作にあたって、自分が一番考えていたのが、「あわ居って何ですか?」「私たちはあわ居で何をやっているんですか?」っていう問いに対する回答を、本によってしっかりと示すということでした。その時に、主宰者である自分たちが、饒舌にあるいは一方的に、あわ居について語るのは嘘だなと、まずは思った。そこで綺麗にあわ居のプレゼンテーションをしたとして、もしかしたらそこで「あ、そういう場所なんだな」っていうような認知はされるかもしれない。けれど、でも本当のあわ居の姿はそこには映らないっていう確信がありました。だから、自分たちが直接的に、あわ居について「こういう場所です」って言及している箇所は、必要最低限になっています。ただいくらかは書いてしまっているので、バチウほどの禁欲さはありません(笑)。
一方で力をいれたのが、様々な方との対談であり、あわ居の体験者へのインタビューです。そこではもちろん、あわ居が何かということが明確に示されているわけではないし、仮にそこであぶり出されるあわ居の姿があったとして、それはあくまでも個人が私的に捉えたものだから、それがどこまで普遍的なあわ居の姿を投影しているのかはわかりません。でもそこにこそ、あわ居の姿が映るのではないかと自分は思っています。むしろ、そこにしか、あわ居の姿はないのではないかと思っている。
自分たちは自分たちを作っていくためにも、あわ居をやっているわけですけど、それは、その都度ここを来訪される方との交わりであったりとか、そこで起きる出来事であるとか、そういうものが堆積していくなかで、自分らも予期せぬところで展開していっています。その意味でも、自分たちの姿、あるいはあわ居が何なのかということは、事後的ににじみ出てくるものなのではないかと……先ほどの「何者かわからない」っていうお話とも繋がってきますけど、こちらが言語で記号を示して、そこで生じるコミュニケーションもあるかもしれないけれど、そうではなく、じかに応答することで発露するものを見たいし、そこでこそ自分たちも作られていくんだなぁという感覚を、実践のなかで確かに感じている。
●詩としての旅
■阪本:
ひとつお聞きしたいことで、例えば来訪者の方はどういうふうな動機で、あわ居にいらっしゃるんですか?
■岩瀬:
旅に行くときって、割とそういうことが多いと思うのですが、やっぱり日常で行き詰っているとか、自分のネットワークのなかでは、もうどうにもならない状況にあるとか……そこをひらいていくきっかけが欲しいという方が一番多いと思います。何を自分が求めているかはわからないのだけれど、何かを求めているというような……。
■阪本:
そこでは必ずしも解決を促すというわけではないんですよね。
■岩瀬:
そうですね。問題解決というと、いまある秩序やシステム自体は固定したままで、そこで起きている問題に対処するというイメージがありますが、それとはおそらく違います。本棟で実施している「ことばが生まれる場所」でいうと、言語的にその方の状況を整理をする部分はもちろんあるので、場合によっては問題解決に近い要素も多少あるかもしれませんが、どちらかと言えば、その方の採用している既存の秩序やシステムそれ自体を揺さぶるというか……ケースによっても千差万別ですが、体験者の方のインタビューを読んでいると、「異化」というものに近いことが、わりと多く起きているのかなという気がしています。
例えば、ある女性がひとりで「ことばが生まれる場所」に参加した際、彼女は彼女も知り得ない自分自身をその場で見たというケースがありました。それは私たち主宰者との応答関係のなかで発露した姿です。正確に言うと、もしかすると、そういう自分がいることを彼女は知っていたかもしれないけれど、そこに肯定的なものを見ていなかったがために、彼女はそれを後景に退けてしまっていた。そうした姿があわ居の場であらわになったとしても、そこで何か問題が解決されるわけではありません。ドミナントな自己への認知に対しての、オルタナティブなそれが、応答関係のなかでふっと垣間見られた、ただそれだけが起きたのだと思います。その経験をしたからといってすぐに劇的に日常が変わるわけでもなく……でもそれはとても大きな出来事として、彼女の中に残り続けていくような気がするんです。
その意味では、あわ居というのは、その人自身も知らないその人自身が出てくるような、ある意味での、出遭いの時間をつくっているという側面があるのかもしれないですね。昨年、私が精神的な苦境のなかで、京都に阪本さんを訪ねたあの時間、あの韓国料理屋で展開したダイアローグというのはまさにそういう時間だったと思います。あの時は「顔」からふっと自分の深淵、自分の知らない自分自身を覗きこまれるような、そんなおどろおどろしさが確かにありました。けれどもそういう時間こそが、本来の旅の醍醐味なのではないかと。つまりは出遭いですよね。詩です。そうした他者との創発的な出遭いにこそ固有の時間があるし、生の中にきちんとそういう時間を織り込んでいくことでこそ、全体化の波に抵抗することができるのではないかと、自分はそう思っています。
■阪本:
なるほど。創発的な出遭いというのは、一体どこからどうやって出てくるんでしょう。
■岩瀬:
あわ居の場で言えば、そういうものが、自分たちの意図だけで成り立っているとは全く思っていないです。どれだけ細分化しても細分化しきれないものがそこにはある気がしています。
■阪本:
岩瀬さんたちが石徹白に移住を決めた時の話もそうですけど、人が旅するとか、移動するときって、自分以外のものも織り込まれて、ある別の通路が出てくるところがありますよね。
■岩瀬:
その意味でも、いろんな要素が有機的に連結して、そこに新たな道が見えてくるっていうような、そういう時間があわ居で生じるというか……それを作っている。でも作っているとは言いつつも、自分たちとしてもよくわかっていないところで、それは生まれている。自分たちの狙ったようになれば良いというわけでもない。でも確かに何かが起こっているっていう……その意味でも、あわ居で起こっていること、むしろあわ居という場所自体が、自分たちにとっても不思議な場所ですよね。得体が知れない。
■阪本:
得体が知れない……それで言うと、少し話は逸れますが、僕がハワイに行く時に、いつも泊めてくれはった、ある老夫婦がいます。女性の方はジャン・シャルロ記念館という、ハワイの壁画家の資料を集めた美術館のキュレーターをしていました。バチウはシャルロの盟友だったので、そこにはバチウの資料も数多く収められていたのです。そこに通い詰めるなかで、彼女ととても仲良くなりました。この老夫婦、ブロンとギャレットという二人ですが、その二人は今まで出遭った人間のなかで一番美しい人間だと僕は思っているんですよ。会えて良かったって。なんならバチウ研究は、この人たちに会うためにやっていたんじゃないかって思うくらいに(*1)。
ふたりは、ハワイのマキキ地区にあるビルの最上階のペントハウスに住んでいるんです。インドネシアの芸術世界に深く入り込んだアート・ヒストリアンでもあるふたりの家には、古代美術のさまざまな品に溢れていて、とても怖い場所なんだけれど、護られている感覚もある。ある日とても驚いたのは、ペントハウスのテラスからパンチボールという大きな火山クレーターをのぞむと、眼下に共同墓地があって、その中心にとても大きな榕樹(バニヤン)があるんですね。その樹が、どうしても見てみたくなって、ふたりを誘っていってみることにしました。そしてなんと、樹の木陰にバチウのお墓があったんです。それは信じられない繋がりというか...…得体が知れないっていうところで言えば、そういう計算できないことっていうのが、この世の中には確かにあるのかなって思わされました。
●偶然と必然
■岩瀬:
そういう不可思議な出来事について後から考えた時に、「もしそれがなかったら、自分はどうなってしまっていたんだろう」って怖くなることが自分は多いんです。たとえばある樹の姿に、自分が今後どのように生きていったら良いのかをふっと知らされたり、あるいはある人物と出遭った時に、自分の歩んでいく道がぼんやりと映し出されたりとか……本との出遭いなどもそうかもしれないですが、後から考えた時に、「それがもしなかったら……」と考えると怖ろしくなる。そういう出来事って確かにありますよね。
そしてあわ居は、そういう偶然であり必然でもあるような時間、あるいは出来事が立ち現れるような、そういう場所でありたいと思っている。さっきも少し触れた通り、そうした出来事は自分たちだけでは引き起こせないわけです……でもそういうよくわからないものが確かに起きてしまう、しかもそれが、その時、その人に必要な形で起きてしまうという、そういう場所としてあれたらなと。
■阪本:
そうですよね。それは一切コントロールできないことですよね。でもその瞬間というのが、自分の原点となることがある。そういう時って、手が先に動いたりしますね。本棚で言えば、それを取ろうと自分が思ったわけではないのに……。
■岩瀬:
能動でもなく、受動でもなく、でも能動でもあり受動でもあるというか……中動態と言っても良いかと思いますが、その曖昧なところで手が動く。それはおそらく、日常の自動化した秩序とは別のところで、何かが起きているということだと思います。その不思議な瞬間というのか、世界においての出来事というのか……その現場に関わっていたい。その瞬間にこそ、その人がその人の固有の生をひらいていく重要な何かがあると思うから。
自分自身が、そういう出遭いをこれまで重ねてきました。そのひとつひとつの出遭いに救われ、ひらかれてきた。そしてこれからもそういう出遭いを重ねていきたい。それらの出遭いは痕跡として身体に残り、ひとつひとつが今の自分を形作っています。あわ居の話でいえば、もしかしたら一回しかいらっしゃらない方もいるかもしれないですよね。でもそれはそれで良いと思うんですよ。「僕らのこと覚えてる?」なんて聞くもんじゃないですよ(笑)。
■阪本:
(笑)。
■岩瀬:
でもあわ居の時間のなかで、互いに痕跡を残し合う関係性を築いていけたら良いなということを確かに思っているんです……少し話はそれますけど、昔の人って、人だけじゃなくて周りのいろんなものを、自分で命名していたいと思うんです。それは「これはみかんだよ」って先に誰かから教えられるというかたちではなく、まずは自分でじかにそれを触ってみて、そこに応答関係を成立させて、そのうえで名付けていたと思う。自分を含めて、そういう順序で世界の何かを命名しようとするはたらきが、今の人間はひどく弱っているように思うし、むしろそれをしない方が生きやすいと錯覚してしまっているところがあると思います。でもそうやって周りのいろんなものに触れて、応答し、互いに痕跡を残し合うようにして生きていけたら、それが旅としての生涯、詩を織り込んだ人生になるのかもしれないなという気もしています。
■阪本:
僕らがこの世の中を見ている視点は、あまりにも規範化されていますよね。国家とか民族とか、ジェンダーとかいろんなものがそうですけど、時間感覚にしてもそれは同じことです。「一生をどう生きるか」とか「毎日をどう生きるか」とか、あるいは「小学校一年生から六年生までどのような時間を過ごすか」とかもそうですよね、すべて規範化されている。枠のなかで切り詰められている精神は、もっと伸びやかであるべきとも思います。自然界の時間感覚は、人間界のそれとはまったく別で、もっと大きくて、もっと繊細です。人間の外側は無限大・無限小にあるのに、人間は自分たちの時間をすごく固定化したものとして作ってしまっている。そういった外側を、たとえばハワイ、とりわけビッグ・アイランドに行くとまざまざと見せつけられます。
キラウエア火山の麓で二ヶ月過ごしたことがあります。そこは歩いて三〇分くらいでハレマウマウというネイティブハワイアンの聖地がある場所でした。大自然は、人間の時間感覚とか記念碑であるとか、そういうものはおかまいなしに壊していくところがあるわけですが、二〇一八年の大噴火では、かつて僕がその周辺で歩いたところを全部溶岩が覆いつくし、ハレマウマウ自体も崩落して無くなってしまいました(二〇二〇年の噴火で再度溶岩湖が形成されているが、現在は立入禁止)。しかし、滅びと再生はともにあると、ハワイ神話を生涯をかけて研究してきた友人は教えてくれました。溶岩の波は、彼らの神話においても怖ろしいものとして描かれているけれども、むしろ高揚するものでもあるのだと……溶岩流が大地を薙いだあと、島のように点在する燃え残った森を「キプカ」といいますが、そのキプカから、植物は不毛の地に種を飛ばし、新たな生命のサイクルが始まっていく。人間からすれば途方もない時間感覚ですが、その宇宙的な時間を人間も内面化し、災厄に直面しながらも、その時々に、新たなはじまりを生きることができる、と。それは日本も、あらゆる土地でも、一緒のはずだと思います。僕らの時間を支えている、別の時間のサイクルがある……でもそういう別の時間が、今の社会ではあまりに見えないから、それを立ち上げる言葉というのが、詩として希まれているのではないでしょうか。それが先に話したような、ささやかな日常の詩学の中にどのように織り込まれうるのか、大切な問いとして持っています。
●直線の外へ
■阪本:
「書く」という話で言えば、それは他者から贈与されたものに対して、自分の言葉で贈り返すということだと僕は思っています。つらいのは、それがちゃんと贈り返し切れているのかということですよね……先ほどお話ししたブロンとギャレットのふたりについても、自分はなんでこの人たちと出遭って、なぜそこで言葉を紡ごうとしているのだろう。バチウについて書くのであれば、この方たちについても書くべきなんじゃないか、と。最近まではそう思っていた……そこに意味を見出そうとしていたんでしょうね。
この人たちに出遭って今ここで言葉を持ちうることが何なのかって……その「何」を言葉で突き詰めるということを、僕はしていたのだと思います。それが自分が生きている何よりの現実だから。相方には「いつもお前はここに居ない」って怒られるんですけど(笑)。ここに居る現実と、旅における現実がすごく混在している。でもそこで反発していたものが、反発しなくなってきているところが最近はありますね。それに今は、書くことだけが求められているわけじゃないのかもなって……。
それが何でかというと……これは最近気付いたことですが、ある出来事が自分にあったとして、言葉はそれを直接的に、直線的に語れるというものではないわけですよね。出来事は一つでも、自分の中にいろんな形をしながら存在していて、言語化とか意識化ができないレベルで発酵していたりもする。それが数年、数十年かけてようやく、ものとして出てくることもあるし、仮にものとして出てこなくても、日頃の佇まいとして形をとる、そういうことがあるんだっていうことを想うようになってきました。
唐突ですが、最近、僕の書いた論文を読んだ、会ったことのない人から連絡が来たのです。彼は日本出身なのですが、いまルーマニアで、バチウがかつて住んだ家からすぐそこのところに住んでいる。彼も詩を志した人で、長いことパラグアイに住んでいた。そこでは抑圧的政権に反抗する先住民運動に関わったらしく、その闘士に師事していた。でもその闘士が亡くなった後、彼は、その闘士の家系を辿り、その人生を本にすべく旅に出て、パラグアイだけではなく、パリやヨーク、さまざまな土地を訪ね歩いて資料を集めていくことになった。そのなかで、彼はタイに行って、ルーマニア人のパートナーと出遭い、コロナのこともあって、ルーマニアに飛んだのだそうです。そして何のゆかりもないのに、ブラショフでユースホステルをやることになった。
なぜルーマニアの人と結婚し、ルーマニアに来て、そこでホステルをやっているんだろうと、彼は一年くらい悩んでいたそうです。でもある日、自分の家のすぐ横に、バチウの記念館があることに気付き、いろいろと調べていくなかで僕の論文を読んだ。そして日本から僕が旅を続けて、世界中の誰よりもバチウのことを調べていることに驚いた。
特に、彼が着目したのが、インターネットのない時代に、民族や国境を超えて、全く知らない地球の裏側にいる人間と一緒に、自分たちの生きることへの問い、あるいはそこから出てくる言葉を共有していたMELEという詩誌のあり様です。そのような連帯があったということには、僕もそうですが、彼にとっても衝撃的なことでした。そのようなつながりこそが、これからの言葉のありうべき姿なのではないかということを彼は思ったとのことで。それでこの間、彼が日本に帰ってきた時に、僕の家に来て、そこで一緒に詩誌のプロジェクトをやろうという話になった。
■岩瀬:
えー(笑)。すごい(笑)。
■阪本:
ルーマニアと京都とハワイでMELEのリバイバル版ができないかと思っています。彼はホステルをやっているから、世界中から人が泊まりにくる。武器の調達をしにウクライナの兵士も泊まりにくるそうです。さらにはロシア人も泊まりにくる。パレスチナの人も、イスラエルからも人が泊まりにくる。気まずかったり葛藤があったりするわけですが、彼は詩をもって、この状況に何か応えることができないかと考えている。
彼はパラグアイの恩師を追いかけてこれまで旅を続けてきました。それが急に途絶された。ある植木鉢からいきなり引っこ抜かれて、別の植木鉢に突き刺された。そこでいったんは、生きる意味を失っていたそうです。でも、新しく、全く関係ないように思えるけれど、どこかで通底しているようなことを得たことで、今は推進力をもって生きている。僕はそのあり方に、とても感化されました。そしてこれはまさにバチウが繋げてくれた縁ですよね。
思ったのは、彼みたいにではないけれど、人間というのはぶつ切れでも良いんだなということです。いろんな来歴があって、そこに一貫性もなければ、急にやることが変わりもする。でもそれが生成変化ということだと思う。さっきも言った通り、ハワイで導いてくれたブロンとギャレットのことを、僕はずっと言葉にしようと思っていたんです。あとはバチウについても、これから何十年かけてバチウ論をどこまで深めていけるかということを考えていた。でも一方で、家のこととか、色んな土地をまわってその土地を知っていくっていうような行為を自分がしていることに対して、分裂してしまっていると捉えているところがあったんです。でもだんだんと、それらはそれぞれに別個のことだけれど、別個のことではないんじゃないかって思うようになってきました。要するに、さまざまな土地、さまざまな時代が僕の生のなかに入り込んできていて、無数の斜線が引かれている。人間だけではなく、日々に出遭うあらゆる存在の記憶が、そこに混ざり込んできて、クロスオーバーしている。そうしたあり方から、言葉は紡がれるものだと思っていますけど、でもそれらが具体的な形にならなければならないわけではない。
■岩瀬:
わかります。他者から見ればすごく不安定に見えるかもしれないし、何やっているか良くわからない、一貫性がない、飽き性に見える、「あなた将来大丈夫?」みたいなところがあったとしても、でも本人の感じている生きていることの強度というか、その都度そこにあるひらかれや、「確かさ」を重視する在り様の方が、生命体としては生き生きしているんじゃないのかなと自分も思います。
先ほどの「何者か?」の話ではないですけれど、先に言語で自分を規定したり、外的な目標をあらかじめ設定してしまうと、自分の中の重要なものを制御してでも、そちらに積み上げないといけなくなってしまう。それにがんじがらめになってしまう。それは自己疎外ですよね。そうすると出遭いもおそらくなくなりますし、仮にあったとしても、そこから生成変化へ向かいづらくなると思う。自分の過剰さに対して、負のレッテルを貼ってしまうようにもなると思います。
でも本当の創造というのは、自分でもよくわからないところで結晶化するものだと思います。今の自分が頭の中で望むものと、「世界」が希求するものが一致しないことは往々にしてある。だからこそ「これが何になるのかわからない」という部分を常に抱えつつも、でもその時、そこにしかない「確かさ」やよろこびを重視する方向にこそ、何かがあるのだと思う。そこにしか「世界」はないと思う。何がどう連結するのか、どう絡まり合って、それらが結晶化するのかは生命だけが知っていることであって、それはもうある種の神秘なわけですよね。だから確固たる自己同一性とか思惑のようなものは潔く捨てて、常にわからなさを抱えたまま、生命に身を任すなかにこそ、真の創造があるのだと僕は思います。創造は生命がするのであって、自分がするものでは決してない。「世界」や生命、あるいは創造は、いつでも「ままならないもの」であるように思います。
■阪本:
けれども今の社会はその内発的な生命の伸びやかさや強度を、積極的に奪っているような気がします。論文をいくつ書いたとか、どんな資格をもっているか、どんな地位にいて、どんなことを教えているかとか。自らの内側から湧き起こる熱情ではなく、産業化された社会における規定に合わせて、人は常に計算しているようです。自らを道具化する。自分を、存在ではなくて、能力にしてしまう。今話してくださったことは、きわめて大事なことですけれど、教育できるものではありません。今は、Aができる、Bができるっていうような、パッケージ化された何かを、ある方式の中で、学生たちに移植していくというのが大半の教育になっています。
■岩瀬:
しかも難しいのが、教育する側も保証はできないわけですよね。「そこを生きて良いんだ」と言ったところで、それはある面から見れば、周りからも理解されづらい、ある種の危うい道じゃないですか。だからそうではないパッケージ化された道を、っていうふうにしておくのが無難なのかもしれない。でも自分の場合で言えば、大学の恩師とかその後に出遭った様々な方が、ぐわっと、その危うい道に誘ってくれたっていうところがあった。それは決して強要されたということではなく。自分にとっては、そういうのが本当に有難かったんです。
その意味では、あわ居がやっていることも、ある人からみれば、暴力にもなりうるものだと思います。でも生きていくうえで、外部との出遭いがなくなってしまったら……それはもう人間にとっての生きていること自体が、かなり危うくなってしまうんじゃないのかなと、そういう危機感もあります。だからこそ、直線的な時間の流れとは別のところにある時間を体験する、あるいはかつての固有の時間の記憶を想い出すような体験をする。そういうことがその人の強度ある生を支える基盤になるのではないかというところで、自分たちはあわ居を営んでいます。
■阪本:
今の社会は、問題なく、滞りなく、気持ちよくっていうことだけを、幸せだって錯覚させて、出来る限り内側に、っていうふうにさせる力学が働いていますから、それはほんとうに重要なことですね。
●他者の顔
■岩瀬:
さきほどの老夫婦のお話ではないですけど、他者から自らを問われるって、見方によってはとても煩わしいものかもしれない。特に現代のような問題なく、滞りなく、気持ちよくっていうことを優先する場所においては……でも本来それはものすごく大事な経験ですよね。他者のまなざし、あるいは「顔」から、自らの在り様を問いかけられること、そしてその出来事を反芻すること……『ことばの共同体』でも書きましたけど、石徹白に住まれていた徹さんという方の語りに、自分はとても揺さぶられました(*2)。一年半ほど前の話です。揺さぶられたと同時にひらかれた。外へと連れ出された。それで徹さんはその後、数ヶ月して亡くなった……あの時に聞いたのはもちろん徹さんの私的な記憶ですけど、あれはもしかしたら、もっと大きな記憶だったのかもしれない。そういう出遭いがあったなかで、じゃあ自分はこれからどうしていくんだろう、っていうことは、今ももちろん考え続けていますよね。
■阪本:
僕の経験則でしかないですけれど、自分のなかで「これだ」って思う時って、自分ごとではないですね。徹さんの記憶も、岩瀬さんが自ら追い求めたものではなく、記憶の方から岩瀬さんを訪うものであったから、そこまで深くまで入り込んだのでしょうか。
■岩瀬:
なるほど。そうかもしれないですね。
■阪本:
献身というか、何かに捧げている時っていうのが、かえって自分本来の道を歩ませてくれているというのか……バチウに対してもそうでした。自分が一番うまくいっていない時って、バチウを手段化してしまう時やと思います。バチウを研究対象にして、それを使って何か言おうとしてしまうとか……でもひらかれる時というのは、無我夢中じゃないけれど、自分を忘れている時ですよね。
■岩瀬:
僕も石徹白に移住を決めて、後からものすごい葛藤があったんです……改修がとにかくつらいっていう(笑)。そこで手を止めたら前の生活に戻らないといけないわけですが、どうしてもその選択肢が目の前にちらつく。そういうふうに一年くらい宙づりになっていた時に、ブラジル移民の写真であったりとか、戦争体験者の手記とか、リサイクルショップにあった、滋賀県の多賀大社の昔の宮司さんが書いた書作品であるとか……そういうものに自分はまなざされたんですよ。
まなざされたというよりかは、あれはもう憑かれていたような気もする(笑)。それくらいに強度のある体験だった。そしてそこで自分は、あわ居を作ることに対して「これは自分だけの話じゃないんだ」というのか……もっと言うと「歴史からの要請」のようなものを感じたんです。自分がつくるのをやめてしまったら、何かが止まってしまうように感じた。それで結局つらいのはあんまり変わらないんですけど(笑)、でもそのなかに面白さとか世界が書き換わっていく感触がだんだんと出てきたりもして、なんとか完成までこぎつけたようなところがありました。
●時を編む
■阪本:
何が自分を突き動かすのか、ということですよね。しかもその出遭いも、自分自身が設定したものではなかったりもする……。
■岩瀬
生きていくうえでの通路が閉ざされた時、それでもその先に別の線を伸ばしてくれるのは、まさしく他者ですよね。それは生身の人間かもしれないし、誰かの残した本かもしれないし、ある場所かもしれない。あるいは樹木、もしかしたら風かもしれない。そうした他者との出遭いによって生命は流動していく。おそらく人は出遭いを重ねるなかで、自分の生命が、決して自分だけのものではないのだと実感していくのではないでしょうか……誰かの残した線の上に、今の自分がいることを感じ、さらにその線を自分が伸ばしていく。
誰かが残した形あるものがあったとして、もしかしたらそこにすぐに生命が感じ取れるわけではないかもしれない。でもある時そこに、ふっと微かに生命を感じ取れたときに、それを自分なりになぞったり、引っ張ったりすることが人間にはできる。ある種のリレーのようなものかもしれないですよね。
■阪本:
たぶん、色んな線を伸ばしていくだけなんですよね。既に引かれている線を伸ばして、また別の線に乗り換えていく……簡単に理解はできないけれど、でも確かに身体が反応して繋がっていくっていうことの持つリアリティ。それはやっぱり自分の外側に出て、右往左往しないと身についていかないですよね。
■岩瀬:
そうしたものとの出遭いを、いかに手繰り寄せていけるのか……少し話は逸れますが、僕の専門領域のひとつである書道で言えば、書道史というものがあって、そこに載っている作品ももちろん素晴らしいわけですが、でもそれはあくまでも、ある観点から人為的に整理された歴史に過ぎないわけです。それに載っていないところにも良い書はいっぱいあります。でもそうした正当だと言われている歴史から排除されたような書って、普通にしているとなかなか出遭えないんですよ。それにそういうものを目にした時というのは、まさに自分が問われる瞬間でもあります。
それで自分の字の系譜は、むしろその排除された方にあるような気もしています。自分が書きたいと思ってしまうもの、自分がどうしてもそういう形を書いてしまうものは、正当と言われる書道史とは少しはずれたところにあるわけです。そういう時に往々にして起きるのが、正当だと言われているものから自分がはずれているという理由で、そこに負のナラティブを作ってしまうことだと思います。自分もそれをやっていました。
でも自分は、さっきお話ししたような、正当の歴史からはずれた書にその都度出遭い、そこから自分の線を伸ばしていくことで、そこに否定的ではないナラティブをだんだんと構築しているようなところがあります。この時に思うのが、もしそうした歴史に埋もれた書がこの世に存在していなかったら、もしかしたら自分は自分の字に対して、すごく否定的に捉えていたんじゃないかということです。「正当の書道史に収録されているような字」を書かなきゃいけないのかなって。
それで何が言いたいのかというと、正当だと言われるものは、それとしてあっても良いですけど、それだけが道ではない、オルタナティブはいくつもあっていいはずだということです。でもそのための通路は往々にして隠されていたり、埋もれていたりする。そこが怖ろしくもあるし、でも実は醍醐味だったりもする(笑)。そしてこれは書道史に限った話ではないですよね。あらゆるジャンル、むしろ「生き方」というところについてもまるっと適用できる話だと思います。
■阪本:
重要な問題ですよね。人間は歴史に容易に飲み込まれてしまいます。歴史に残らないといけないとか、長く語り継がれるとか……もちろん長く語り継がれるのは大事なことですけれど、ある単一化した基準としての歴史に記録されるということではないと思います。無数の導線が絡まり合った糸玉としての世界があって、ある糸を引っ張ったら、別のところにある糸と結ばれ繋がっている、そのように交通している何かから届けられるというものがあると思います。それは直線的な歴史の在り方ではないですよね。バチウの文学、MELEも、まさに今いったような存在です。MELEには、さまざまな個人が書いた言葉が海と大陸を超えて交通している。ハワイの市井の人や学生の書く詩もあれば、ノーベル賞を獲得した大詩人オクタビオ・パスによる詩も載っている。
MELEを僕が手にしたのは二〇〇五年のことですけれど、その号にはハワイ語の詩がありました。とてもじゃないが読めない。でもとりあえず持っておく。そしてその10年後、MELEを持って、そのハワイ語の詩を寄稿した本人に会うことになるのです。そこで「これはどういう意味か?」って訊いて、はじめてそこで内容を読んで理解することができた。しかもそこに本人との出遭いもついてきて。
そういう関係性の在り方もあるわけですよね。十年をかけた読書、海を越えて旅することでわかる意味というものがある。これも一つの受容のあり方です。絡まり合った時間、日本、ハワイ、ルーマニアという絡まり合った空間があるなかで、ある時にヒュッとひらかれる道がある。それが何より生きているということ。生きるということの“真実”が、そこにあるような気がします。時間と空間を超えた言葉の小径というものがあって、それを歩む命と結びついている。存在は、すでにそうした道を孕んでいるのではないでしょうか。それこそが時の綾なのだとおもいます。
(*1)阪本佳郎(2020)「記憶の宝物庫」『pieria(ピエリア)』第14号、pp.42-43、東京外国語大学出版会
(*2)岩瀬崇(2023)『ことばの共同体』pp.108-117、あわ居
対談実施日:2024年2月28日